裴 行倹(はい こうけん、武徳2年(619年) - 永淳元年4月28日682年6月9日))は、中国初の官僚・武将。は守約。本貫河東郡聞喜県。父は裴仁基。兄は裴行儼。正妻は陸氏(陸爽の娘)。継室は厙狄氏。子は裴貞隠・裴趍玄・裴義玄・裴悟玄・裴延休・裴慶遠・裴光庭。娘は蘇味道の妻・王勮の妻。

生涯編集

科挙明経科に及第し、永徽6年(655年)に長安県令となる。後に武則天を皇后に刪立する議に反対を表明し、西州都督府の長史に左遷された。それ以降は、西域の経営に尽力して、麟徳2年(665年)には安西大都護に任ぜられた。

総章2年(669年)、吏部侍郎となり、官吏の任用にその才を発揮した。儀鳳4年(679年)、礼部尚書に転任。その間も、西域の経営に関して成果を挙げており、儀鳳元年(676年)、洮州道左二軍総管となり、吐蕃を攻略している。

儀鳳3年(678年)、サーサーン朝ペルシア滅亡後、吐火羅国に亡命していた伊嗣侯(ヤズデギルド3世)の子である卑路斯(ペーローズ3世)を送還するためという名目で、西突厥を征討しており、阿史那都支中国語版らを捕縛し、また碎葉城に紀功碑を立て、翌年に凱旋した。永隆元年(680年)、定襄道行軍大総管となり、30万余りの大軍を統率して東突厥を討伐し、開耀元年(681年)春には大勝した。投降してきた阿史那伏念阿史徳温傅らを捕縛して凱旋した。このように数々の武勲を立てた初唐の名将として知られる。永淳元年(682年)4月、長安の延寿里の邸で病死した。享年は64。幽州都督を追贈され、献とされた。

においては、草書に秀でていたとされ、文集20巻や、選譜などの著述もしたと記録されるが、現存しない。

伝記資料編集

参考文献編集

  • 高木重俊「初唐詩人を巡る人々II 裴行倹:文芸と器識の問題を中心に」(『北海道教育大学紀要』第一部A人文科学編 44-2、1994年)