西笑承兌
西笑 承兌(さいしょう(せいしょう) じょうたい、天文17年(1548年) - 慶長12年12月27日(1607年2月13日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽[1]。
山城国伏見(京都市伏見区)の人。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務め、特に諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
生涯編集
天文17年(1548年)に生まれる。幼い時に出家し、はじめ一山派の仁如集堯(1483年 - 1574年)らに参禅して学び、天正12年(1584年)に荒廃していた相国寺に住する。中華承舜の嗣法となって夢窓派に転じ、相国寺を再建、相国寺中興の祖と呼ばれる。翌年には鹿苑僧録となった。
その後、南禅寺に入ったが、再度鹿苑僧録となり、豊臣秀吉の政治顧問となる。豊臣秀次や豊臣秀頼とも親交を持った。
文禄の役後の講和交渉では、秀吉の前で明使からの冊封状を読み上げたという逸話でも知られる。
慶長5年(1600年)には、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たった。この時、承兌あてに直江兼続から送られたとされる手紙が、後世にいう直江状である。
慶長12年(1607年)に死去。