芦屋雁之助

日本の俳優、歌手
西部清から転送)

芦屋 雁之助(あしや がんのすけ、1931年5月29日 - 2004年4月7日)は、日本俳優歌手。本名、西部 清(にしべ きよし)。愛称は、雁ちゃん。京都府京都市出身。京都市立朱雀中学校卒業。

あしや がんのすけ
芦屋 雁之助
本名 西部 清(にしべ きよし)
別名義 雁ちゃん
生年月日 (1931-05-29) 1931年5月29日
没年月日 (2004-04-07) 2004年4月7日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市上京区(京都第二赤十字病院)[1]
ジャンル 俳優、歌手
活動期間 1954年 - 2004年
配偶者 大島久里子
著名な家族 長女(西部里菜
主な作品
番頭はんと丁稚どん
裸の大将放浪記
必殺シリーズ
あすか
備考
歌手として第35回NHK紅白歌合戦に出場
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来歴・人物 編集

実家の家業は京都で友禅染の染物屋を営んでいたが、芸事、道楽事が好きであった父は戦後、「若松家」の亭号を名乗り、芸人として活動し始めるばかりか、一座を組んで巡業の日々となる。清は父について芸をこなしながら、一時、漫才師・五條家弁慶の弟子となり、前座として中国の服を着て手品をしたり師匠と漫才や芝居の舞台に立った。その後、18歳の時に弟・秀郎と当時人気の漫才師、芦の家雁玉林田十郎に弟子入りし、「雁之助(清)・小雁(秀郎)」の名をもらう[2]が、弟子入りしてまもなく亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門される(後に活躍が認められ破門を解かれる)。その後京都の京都新京極富貴、大阪の戎橋松竹中心に活躍、「若手漫才の有望株」といわれ将来を嘱望されるが、3、4年間コンビで活動したところで、演劇評論家の武智鉄二の勧めで突然漫才をやめ、1954年、開場した「OSミュージックホール」に入り、座付作者の花登筐のコントを演じるようになる。以来、花登にすすめられ、兄弟で喜劇役者に転身する。

1959年、花登が東宝から独立して結成した『劇団・笑いの王国』に大村崑らと参加。劇団の主軸を支える。同年3月にスタートした毎日放送の公開コメディー番組『番頭はんと丁稚どん』で、薬屋の番頭を演じ、「強面で下の者には厳しい半面、裏に回ると『女性(今で言うところの「大阪のおばちゃん」、ただし当時はこの言い方はなかった)口調』を使い、女性的な仕草を見せるキャラクター」で人気を集める。主なギャグに「いやいやっ、もの凄いこと言わはる」、「いやっ!えらいとこ見つかってしもうた」、「わてが雁之助だんねん」などがある。

1960年3月1日、大村、小雁とともに、当時としては極めて珍しい3組合同による『テレビ結婚式』を挙げている。最初の結婚相手は元・OSミュージックのダンサー・夏丘梨枝だったが、その後離別している。

1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という図式の下、2枚看板が成立していたが、雁之助は主演舞台を評価されながらも2番手に甘んじている事など自身の処遇に対する不満などから、主宰者の花登、座長の大村から距離を置くようになり、弟の芦屋小雁芦屋雁平や花登に不満を抱く一部座員もこれに追従し始める。こうした事がやがて劇団内の軋轢となり、雁之助は舞台にスッピンのままで出るなど傍目にも花登への猜疑心を露わにするようになっていく。加えて「元・宝塚娘役」、「主宰者の妻」というプライドから看板女優の座に居座る由美あづさの横暴、孤立化する座長・大村など、座員間の不協和音が次第に表面化していく。1964年、花登は劇団解散を決め、西部兄弟らは花登の下を離れる。

1964年、小雁らとともに劇団「喜劇座」を旗揚げ。座付き作家であった藤本義一から、風貌が画家山下清に似ている事を指摘され、それをヒントに藤本が舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ、初演。評判となる[3]

1969年、劇団解散。その後は活動拠点を東京に移し、喜劇だけでなく、本格的な演技派俳優として、活動の幅を広げる。

1976年、人気時代劇「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』で山田五十鈴と共演。1977年には同じく関西喜劇出身で、必殺シリーズレギュラーだった藤田まことが旗揚げした「新演技座」に発起人として名を連ね、一時在籍している。

1979年森光子と共演した舞台『おもろい女』で芸術祭大賞を受賞、代表作の1つとなり舞台での活動も精力的に行った。その一方で関西での喜劇舞台も継続、兄弟共演やミヤコ蝶々かしまし娘らと共演している。

1980年『裸の大将放浪記』(関西テレビフジテレビ系『花王名人劇場』→『花王ファミリースペシャル』)で、かつて評判だった山下清役をテレビで再び演じることとなり、これ以降の当たり役となった[3]

1984年2月1日に発売した、演歌歌手としてのシングル娘よ』が150万枚を超える(オリコンでは約80万枚)大ヒットとなり、同年末の『第35回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。大阪制作・全国ネットのドラマにも多く出演した。この年『佐渡島他吉の生涯』と『裸の大将放浪記』で第10回 菊田一夫演劇賞を受賞。

1994年頃から持病の糖尿病が悪化、静養しながらテレビや舞台出演を継続した。

2004年4月7日午後2時、鬱血性心不全のため京都市上京区京都第二赤十字病院で死去[1][4]。72歳没。後に「芦屋雁之助さんを偲ぶ会」が5月29日に東京[5]、6月2日に地元の京都[6]で行われ、東京会場では森繁久彌森光子を始め200人が足を運んだ。

家族 編集

妻は梅田コマ劇場のダンサー出身の大島久里子(西部久里子)で雁之助の20歳近く年下だった。三男に俳優の芦屋雁三郎(旧名:塩の屋きくお)[7]、娘に元女優で音楽ユニット「indigo blue」のボーカル“Rina”として活動している西部里菜。実弟は芦屋小雁(俳優)、芦屋雁平(俳優、吉本新喜劇入団当初は芸名を初代芦屋凡凡と名乗った)。弟子に船場太郎今宮エビス、芦屋凡凡{2代目}らがいる。

エピソード 編集

  • 裸の大将・山下清との出会いは藤本義一が脚本を担当した1964年の舞台公演が始めであり、その後数回、本人とも対面している。
  • 本名が山下と同じである。
  • 弟と共に大食漢で知られ多い時で1日5回の食事を摂っていた。それが原因で持病の糖尿病を患ったといわれているが、「山下清の役作りのために体重を落とすわけにもいかなかった」と本人は晩年に語っている。
  • 毎日欠かさず飲むほどのコーヒー好きで、葬儀の際には参列者が焼香の代わりに小さな缶に入ったコーヒー豆をコーヒー樽に移し替える、といった趣向がとられた。
  • 1967年京都南座で裸の大将初演時、山下清が激励し「客席にもボク、舞台にもボク」と喜んでいたという[8]

出演作品 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

舞台 編集

劇場アニメ 編集

バラエティ 編集

天野八郎役等多数。弟の小雁や雁平とも共演。

CM 編集

音楽 編集

※ すべてテイチクレコードより発売。

シングル 編集

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
1960年 EP NS-261 A 三等兵物語[11]
B 泣いて笑ってぐっとくるぜ[12]
1969年1月 EP A-13 A しぶちん一代[11] 尼子成夫 小倉博
B 百回節[11] 小泉しづか
1984年2月1日 EP RE-621 A 娘よ 鳥井実 松浦孝之 池多孝春
B 家のかみさん 花笠薫
1984年9月21日 EP RE-644 A 夫婦芝居 鳥井実 松浦孝之 池多孝春
B 雨の法善寺 花笠薫 只野通泰
1984年12月16日 EP RE-652 A コップ酒 高田ひろお 桜田誠一 伊藤雪彦
B 息子へ 鳥井実 花笠薫 池多孝春
1985年6月21日 EP RE-672 A 山河のむこうに故郷が 荒木とよひさ 三木たかし 只野通泰
B 昭和ひとけた子守唄 吉田旺 岡千秋
1985年10月21日 EP RE-687 A ランプの宿 池田充男 弦哲也 斉藤恒夫
B 作並絶唱 伍路りょう 市川昭介
1985年10月21日 EP RE-688 A 海峡の宿 吉田旺 市川昭介 斉藤恒夫
B 湯の町みれん 太刀戸要
1985年10月21日 EP RE-689 A 湯布院情話 石本美由起 岡千秋 只野通泰
B 湯村慕情
1986年7月21日 EP RE-723 A 大阪めおと川[13] 吉田旺 岡千秋 斉藤恒夫
B なれそめ[13]
1987年7月21日 EP RE-767 A お父ちゃん[14] 松井由利夫 弦哲也 斉藤恒夫
B 銀めしの詩[14]
1988年4月1日 EP RE-822 A 春よ 荒木とよひさ 弦哲也
B 夕焼けの唄 高田ひろお
1988年11月21日 8cmCD 10SH-75 1 晩酌 石本美由起 松浦孝之 池多孝春
2 夫婦宿
1990年4月21日 8cmCD 10SH-195 1 人生夫婦ふたりづれ 長谷川洋 水野昭太郎 馬場良
2 ふたり傘
1991年05月21日 8cmCD TEDA-10065 1 赤提灯
2 大阪めおと川 吉田旺 岡千秋 馬場良
1992年4月22日 8cmCD TEDA-10223 1 良縁 石本美由起 松浦孝之 池多孝春
2 一姫二太郎
1993年5月21日 8cmCD TEDA-10283 1 晴れ姿
2 門出唄
1994年10月21日 8cmCD TEDA-15262 1 娘よ 鳥井実 松浦孝之
2 コップ酒 高田ひろお 櫻田誠一
1996年3月21日 8cmCD TEDA-10358 1 夫婦人生航路
2 男の悲哀(かなしみ)
1997年5月21日 TESA-391 1 今夜は女房と 鳥井実 弦哲也
2 おとこひとり酒
1998年2月21日 8cmCD TEDA-10411 1 お入り[15] 鳥井実 双葉あきら 池多孝春
2 こんこん昆布つゆ 水天宮 長沢ヒロ
1999年12月16日 8cmCD TEDA-10462 1 披露宴[16] 堀内孝雄
2 おやじの祭り 津軽けんじ

アルバム 編集

発売日 規格 規格品番 タイトル
1985年6月21日 LP 人はふれあい・おもいやり
1985年11月21日 LP GM-193 秘湯の旅
1985年12月16日 LP GM-179 人生演歌「コップ酒」
1997年6月21日 CD TECE-28021 芦屋雁之助全曲集
2000年2月23日 CD TECE-30158 芦屋雁之助全曲集
2004年8月1日 CD TECE-1003 芦屋雁之助 定番ベスト
2008年3月10日 CD TFC-667 芦屋雁之助
2009年8月21日 CD TECE-1043 テイチク ミリオンシリーズ 芦屋雁之助
2011年4月6日 CD TECE-1089 ゴールデン☆ベスト 芦屋雁之助

NHK紅白歌合戦出場歴 編集

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手
1984年(昭和59年)/第35回  娘よ   14/20 石川さゆり
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

受賞 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月20日閲覧。
  2. ^ “「裸の大将」山下清役を17年間…治療専念できず”. ZAKZAK. (2004年4月8日). オリジナルの2004年6月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040604101808/http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_04/g2004040807.html 2014年3月29日閲覧。 
  3. ^ a b 今日は何の日 / 2004年4月7日 芦屋雁之助が亡くなった日”. おもいッきりイイ!!テレビ日本テレビ). 2008年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月25日閲覧。
  4. ^ “芦屋雁之助さん死去…入院先で急変、72歳”. ZAKZAK. (2004年4月8日). オリジナルの2004年4月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040408174822/http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_04/g2004040806.html 2014年3月29日閲覧。 
  5. ^ 芦屋雁之助さんを偲ぶ会(東京会場)”. 小雁倶楽部. 2005年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。
  6. ^ 芦屋雁之助さんを偲ぶ会(京都会場)”. 小雁倶楽部. 2004年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。
  7. ^ 雁之助の三男・塩の屋きくお 芦屋雁三郎に改名…4年前に渋谷天外代表から打診、悩んだ末の決断”. スポニチ Sponichi Annex. スポーツニッポン (2018年9月1日). 2018年9月2日閲覧。
  8. ^ 2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」
  9. ^ 第52話より登場する、藤岡琢也扮する「雉の与之助」とは別人
  10. ^ カレーQ&A 歴史編”. S&Bカレー.com. 2013年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月28日閲覧。
  11. ^ a b c 芦屋小雁と。
  12. ^ 唄:ジェームス三木。
  13. ^ a b 高田美和とデュエット
  14. ^ a b 福家美峰と。
  15. ^ ヤマサ醤油コマーシャルソング
  16. ^ 白鳥みづえと。

関連項目 編集

外部リンク 編集