観峯女
観峯 女(かんぽう の むすめ、生没年不詳)は、平安時代の女性。本名不明。
概要
編集威儀師・観峯の娘(あるいは縁者)として生まれる。右京進・藤原致行の妾となったが、彼は若くして亡くなってしまい、未亡人となる[1]。
長和5年(1026年)5月25日に大学助・大江至孝が観峯女を強姦しようとして、女の家に押し入るが[2]、この家の雑人たちに制止されて取っ組み合いとなり、逆に身柄を拘束されてしまう[3]。そこで至孝は右近衛中将・藤原能信に加勢を求めると、これに応じて能信は雑人を派遣する[2]。雑人が女の家に到着すると既に観峯らは遁走しており[2]至孝を解放するが[3]、この間に弟子の法師が舞い戻って、能信の雑人の一人を刺殺する[2]。これを受けて能信の家人多数が女の家に殺到して略奪を行い、女は家から引きずり出されて能信の家に拉致されかけるが、結局途中で解放された[2]。
その後、検非違使が女の家に派遣されて、殺人を犯した法師を追捕するが、女の家は塵一つ残さず略奪され尽くしていたという[2]。また、女は検非違使に身柄を拘束されるものの、翌26日に観峯が摂政・藤原道長に対して訴え出たことにより解放され、観峯の家に戻された[4]。
27日になって、道長は至孝および事件に関わった能信の下人3名に対する追捕を検非違使に命じる[5]。28日に右衛門尉・林重親の報告により、至孝が内大臣・藤原公季の邸宅に匿われているらしいことがわかるが、検非違使別当は公季の子である藤原実成であったこともあり、捜索はうやむやにされてしまったらしく[6]、その後至孝が追捕されたかどうかは明らかでない。