角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)関数解析確率論の研究で著名[1]

角谷 静夫
(かくたに しずお)
生誕 (1911-08-28) 1911年8月28日
日本の旗 日本 大阪府大阪市
死没 (2004-08-17) 2004年8月17日(92歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブン
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 数学
研究機関 大阪帝国大学プリンストン高等研究所イリノイ大学イェール大学
出身校 東北帝国大学理学部数学科卒
主な業績 複素解析位相群関数解析不動点定理マルコフ過程測度論ブラウン運動エルゴード理論
影響を
受けた人物
フォン・ノイマンポール・ハルモスポール・エルデシュ
プロジェクト:人物伝
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来歴 編集

大阪市生まれ[2]甲南高等学校 (旧制)の文科を経て[1]、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業[1]大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学[1]。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国[1]。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る[1]。1949年イェール大学准教授[1]、1952年同教授[1]。1982年、定年退職[1]

コネティカット州ニューヘブンにて死去[1]

業績 編集

1941年(昭和16年)に不動点定理を発表[1]。角谷の不動点定理はブラウワーの不動点定理を一般化したものであった。経済学ゲーム理論において、角谷の不動点定理は現在でも頻繁に使われている。特に、ゲーム理論においてはナッシュ均衡の存在を示すために、経済学においては一般均衡解の存在を示すために、角谷の不動点定理は決定的な役割を果たした[要出典]。1950年にはケンブリッジで開催された国際数学者会議で全体講演[3]を行っている。

エピソード 編集

1941年(昭和16年)8月14日、ポール・エルデシュアーサー・ストーンら3人と連れ立ってドライブしていたところ[4]、ニューヨーク州ロングアイランドの立ち入り禁止区域に侵入してしまった[1]。敵国人であった角谷はスパイ嫌疑を掛けられて拘束されるが[1]、プリンストン高等研究所の責任者が素性を説明したことで解放された[1]。この一件を受けて『デイリー・ニューズ』紙に「間諜3人組」の誤記事が掲載された[5]

同年12月、日本とアメリカが開戦したとき、角谷は客員教授としてプリンストン高等研究所に在籍していた[1]。彼はそのままプリンストンに留まることもできたが、母親のことが心配だったので帰国することにした[1]角谷は、アメリカの戦時交換船であるスウェーデンの客船で大西洋を横断し、ケープ岬経由でモザンビークロレンソ・マルケスから日本の交換船に乗り換えて帰国した。大西洋ではドイツの潜水艦による攻撃の恐れが常に存在した。角谷は毎日デッキに座って自分の数学の課題を考え、夜になるとその日に得た定理を紙に書きボトルメールとして海に投じた。瓶にはこれを発見した人はプリンストンに送ってくれるように手紙をつけてあった。しかし、2005年に至るまで、手紙は一つも届いていないと言う。[要出典]

著書 編集

著作集
  • Shizuo Kakutani: Selected Papers. Contemporary Mathematicians. Birkhaeuser. (January 1986). ISBN 9780817632793 

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 伊藤雄二「角谷先生を偲んで」『数学通信』第9巻第3号、日本数学会、2004年11月、46-52頁。 
  2. ^ 角谷静夫氏死去/数学者、米エール大名誉教授 四国新聞 2018年7月29日閲覧。
  3. ^ ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)
  4. ^ ホフマン 2011の口絵に当日の写真が掲載されている。
  5. ^ ホフマン 2011、pp.146 ff

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集