訛里朶(オリド、寿昌2年(1096年) - 天会13年(1135年))は、皇族。漢名は宗輔、後に宗堯。初代皇帝の太祖阿骨打の五男。

経歴編集

妃の僕散氏(宣献皇后)の子として生まれた。『金史』によると、威風凛々とした容貌の持ち主で、寛大で包容力があった。また、家臣たちに対して、恩顧を恵むような政務を行い人望が厚かった。

天会13年(1135年)に南宋へ討伐に赴いた時に、病を得て41歳で逝去した。訛里朶の死の報を聞いた家臣で泣かぬ者はなかったという。

後に長男の葛王烏禄(世宗)が暴君であった従兄の迪古乃(海陵王)を廃して即位すると、亡父に対して睿宗廟号立徳顕仁啓聖広運文武簡粛皇帝諡号を贈り、大房山に丁重に葬って「景陵」と名付けた。

宗室編集

妻妾編集

子女編集

その他多数