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諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 1960年4月17日)は、大正・昭和期の日本の俳優である。本名同じ。日本映画草創期に二枚目俳優として活躍した。

もろぐち つづや
諸口 十九
諸口 十九
1923年頃の写真
本名 同じ
生年月日 (1891-02-03) 1891年2月3日
没年月日 (1960-04-17) 1960年4月17日(69歳没)
出生地 日本の旗 日本福井県大野郡大野町(現在の同県大野市
職業 俳優
ジャンル 新劇新派歌劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1936年
諸口十九

目次

人物・来歴編集

1891年(明治24年)2月3日福井県大野郡大野町(現在の同県大野市)に生まれる。

16歳の時に上京し、藤澤浅次郎の俳優学校を卒業し、19歳で初舞台を踏む。新劇歌劇に数多く出演していたが、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所設立と同時に入社する。

まもなくその美貌を生かし、白塗りの二枚目俳優として次々と主演作を撮る。特に川田芳子とのコンビは大人気となり、初期の松竹を支えた。しかし、当時の若手スター筑波雪子と浮き名を流し、撮影所長城戸四郎と対立し、俳優をやめる[要出典]

1927年(昭和2年)、36歳を迎えるころ、21歳の筑波雪子とのラヴ・アフェアの末、筑波とともに蒲田を退社、独立プロダクション「諸口十九社」を設立する。二川文太郎を起用して1作『美代吉殺し』を製作、マキノ・プロダクションが配給したが失敗、同社は解散する。続いて「諸口十九・筑波雪子一座」を結成、同年12月京都座に出演するが、筑波は諸口との関係を清算して松竹蒲田に戻った[1]

一方、諸口は、トーキーとともに復活、太秦発声映画、松竹蒲田、東京発声映画製作所と数年転々とした[2]後に、45歳になる1936年(昭和11年)、廃業した。

その後は、辻占い師に転じ、晩年には「現代五行易の祖」の一人にあげられた。

1960年(昭和35年)4月17日、満69歳で死去。

おもなフィルモグラフィ編集

関連書籍編集

  • 「日本無声映画俳優名鑑」(無声映画鑑賞会/編、株式会社マツダ映画社/監修)

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  1. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報、1980年)の筑波雪子の項の記述(p.456-457)による。同項執筆は盛内政志
  2. ^ #外部リンク日本映画データベース内、諸口十九の項の記述を参照。

外部リンク編集