護国院 (台東区)

台東区上野公園にある寺院

護国院(ごこくいん)は東京都台東区[上野公園 (台東区)|]]にある天台宗の寺院。東叡山寛永寺最初の子院である。「東叡山寛永寺護国院」と号し、「東叡山釈迦堂」の別名がある。谷中七福神の1つである大黒天を安置する。

護国院
東叡山寛永寺護国院
所在地 東京都台東区上野公園10-18
位置 北緯35度43分9.5秒 東経139度46分12.6秒 / 北緯35.719306度 東経139.770167度 / 35.719306; 139.770167座標: 北緯35度43分9.5秒 東経139度46分12.6秒 / 北緯35.719306度 東経139.770167度 / 35.719306; 139.770167
山号 東叡山
院号 護国院
宗派 天台宗
寺格 寛永寺子院
本尊 釈迦如来
創建年 寛永2年(1625年
開基 生順
正式名 東叡山寛永寺護国院
別称 東叡山釈迦堂
札所等 谷中七福神 大黒天
文化財 絹本著色愛染明王像(重要文化財)
法人番号 3010505000251 ウィキデータを編集
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歴史編集

 
東叡山寛永寺護国院・大黒天

寛永2年(1625年)、天海僧正により東叡山寛永寺が開山したのと同時に、天海の命を受けた開基生順によって、東叡山寛永寺最初の子院として護国院が建立された。

寛永7年(1630年)、天海により境内に一堂が建立され、古仏師春日の作といわれる釈迦、文珠、普賢の三尊像を安置、本尊としたことから釈迦堂と名づけられ、護国院は別当寺(管理寺院)となる。釈迦堂は草創期の東叡山において第一の大建築物であり、元禄期に根本中堂が完成するまで、東叡山総本堂の役割を果した。

大坂城落城25年となった寛永16年(1639年)、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われ、その功績を称えた3代将軍徳川家光より藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像が奉納された。以来この像は護国院大黒天として信仰を集めた。正月3日の「福湯」の行事は『江戸名所図会』、『江戸砂子』にあるごとく知られ、谷中七福神のひとつとして信仰されている。

護国院は当初、寛永寺本坊裏手(現在の東京国立博物館北の寛永寺墓地の位置)にあったが、徳川家霊廟建設のため幕府の命により移転した。慶安4年(1651年)、4代将軍家綱の霊廟建立のため、北寄りに移築。さらに宝永6年(1709年)、5代将軍綱吉の霊廟建立にあたり清水門の傍ら(現在地)に移転した。享保2年(1717年)に本堂(釈迦堂)は焼失し、同7年(1722年)に再建された。

第13世住職等順は、後に信州善光寺別当大勧進第80世貫主に就任し、天明3年(1783年)の浅間山大噴火[1]天明の大飢饉において民衆救済に尽力したことで知られ、お血脈、善光寺本堂での御開帳の由来となり、光格天皇三帰戒及び十念を授け奉っている[2][3][4][5]

大正15年6月および7月、墓地を多磨霊園の4区に改葬し、東京美術学校、現在の東京藝術大学の敷地となった。 昭和2年(1927年)、東京市立二中(旧制第二東京市立中学校、現在の東京都立上野高等学校)の創立にあたり境内地の大半を譲渡し(その際、大銀杏を残すことを譲渡条件としたため、現在も都立上野高校敷地内に大銀杏が残されている)、本堂を現在の位置に移動した。本堂脇の庫裏の1階部分は1927年竣工で、岡田信一郎設計による和風建築である(登録有形文化財)。

墓所編集

かつては館林藩主秋元氏菩提寺として、歴代藩主の墓石が並んでいたが、上記の本堂移設工事により改葬することとなった。泰朝まで総社藩主であったことから、群馬県前橋市の光厳寺境内の宝塔山古墳の頂上に改葬された。初代の秋元長朝からの最後の藩主である礼朝までの歴代の墓所となっている。歴代藩主の夫人や子女、興朝子爵以降(最後の藩主礼朝の名もある)は合葬され、一度多磨霊園に改葬されたが、後に谷中霊園乙14に再度改葬された。また江戸家老を務めていた矢貝氏の墓所は多磨霊園に改葬された。

この他旗本の墓所が多くあり、大久保氏富永氏彦坂氏深見有隣等の墓所がある。絵師の駿河台狩野家住吉如慶からの住吉派代々、石里洞秀医師生野家なども移されている。輪王寺宮家臣麻生将監(子孫に農学博士麻生慶次郎)の墓所もある。

文化財編集

重要文化財編集

登録有形文化財編集

交通アクセス編集

脚注編集

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  1. ^ 信濃毎日新聞2018年9月16日26面「鎌原観音堂に立つ善光寺大勧進住職・等順の碑 群馬県嬬恋村」浅間山噴火救済に尽力
  2. ^ 善光寺本坊大勧進「大勧進の名僧・等順大僧正」
  3. ^ 産経新聞2015年10月31日7面「群馬・嬬恋 供養続け230年、住民の絆」
  4. ^ 上毛新聞2018年8月7日9面(文化)「善光寺の名僧、等順」天明の浅間山噴火 鎌原で被災者救済
  5. ^ 等順が貫主に就任した翌年の天明3年、日本災害史上最大といわれる浅間山大噴火が起こった。等順は被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走し、死者の回向を行い、被災者の救済に当たった。等順が融通念仏の儀式を簡略化して被災者に授与した御守が、落語「お血脈」の由来である。 御開帳に等順を思御開帳に等順を思う 麻績村ポータル

出典編集

関連項目編集