護郷隊

沖縄戦における少年兵部隊

護郷隊(ごきょうたい)は、沖縄戦当時、諜報防諜など秘密戦を専門とする陸軍中野学校の出身将校によって作られた2つの秘密部隊であり、いずれも10代半ばの少年を防衛召集して構成した少年兵による遊撃隊 (ゲリラ部隊) である。

遊撃隊の編成編集

1944年9月9日、大陸命第千百二十六号で第3遊撃隊第4遊撃隊の2つの部隊が編成され、第32軍 (沖縄守備隊) に組み込まれた[1]。第3遊撃隊が第1護郷隊、第4遊撃隊が第2護郷隊である。第1遊撃隊はニューギニア、第2遊撃隊はフィリピンに展開していた。陸軍中野学校出身の幹部将校15名は9月に沖縄入りした[2]。小隊長以下の兵員は地元出身者が多く[3]、名護にあった沖縄県立第三中学校の三中鉄血勤皇隊や県立水産学校の水産鉄血勤皇隊、そして国民学校の生徒など、地元の地理に詳しいものが集められていた。9月半ばから、北部を視察した士官らは、北部 各地の国民学校 (名護校、謝花校、羽地校) や中学校 (三中・水産学校) の生徒名簿を入手し、リストを作成、10月から学校や役場を通じて少年たちを召集していった[1]

その役目は、第32軍(沖縄守備軍)が壊滅してもなお、沖縄で遊撃戦を続けることで本土決戦を先延ばしにするという、捨て石の延長をねらったものだった。ゆえに第32軍牛島満司令官に「敵が上陸し玉砕した場合に、われわれが最後まで敵の後方を撹乱し、大本営に情報提供します」と任務を説明した際に、長勇参謀は笑いながら「我々の骨を拾いに来たのか」と冷やかした[2]

護郷隊は、いずれも14歳から17歳の少年を防衛召集していたが、その法的根拠は、鉄血勤皇隊通信隊とおなじく、法令ではなく、軍令としての陸軍省令第59号「陸軍召集規則」第58号「防衛召集規則」で、「前縁地帯」と規定された沖縄県と奄美諸島などに限り14歳以上17歳未満で志願の防衛召集をさせたものだが、法的な問題があっただけではなく、護郷隊では学徒動員よりもさらに強制的であり、役場から呼び出しの連絡が来て小学校に集められ、そのまま召集された。少年たちには、「護郷」、自分の故郷は自分で守れ、という護郷隊の大義が強調された。

第一、第二護郷隊の戦死者は、約160人にものぼり[4]、集合に遅れたというだけで制裁のために仲間うちで銃殺させたり、軍医に殺されたりした少年兵もいた。

第1護郷隊 (第3遊撃隊)編集

第3遊撃隊(第1護郷隊) (村上治夫隊長) は4個中隊、約500名で編成。村上大尉と他6名の中野学校士官が着任。名護岳(第1中隊)、多野岳(第2中隊)久志岳(第4中隊)、乙羽岳(第3中隊)を拠点として、遊撃戦に備えた。

4月17日の真喜屋・稲嶺・源河の遊撃戦では、「敵に利用される家ならば」と里の家屋に付け火をしてまわらせた。6月には、集合に遅れた少年兵を制裁のため、仲間うちで射殺させるという凄惨な事件も起こしている[5]

第1護郷隊は実質的に7月に解散するが、終戦後も村上隊長らは数度の下山勧告も拒否し、名護岳付近に潜伏したが、1946年1月2日、日本軍将校が八原博通高級参謀の手紙を携えて説得した結果、翌日下山した。

  • 第一護郷隊の慰霊碑[6]

第2護郷隊 (第4遊撃隊)編集

第4遊撃隊 (第2護郷隊) (岩波壽隊長) は3個中隊、約393名で編成。岩波大尉と他5名の中野中学士官が着任。恩納岳と石川岳を拠点として遊撃戦に備えた。中部から逃げ延びてきた飛行場部隊などが合流し、当初の部隊の人数から千人規模に膨れ上がった[7]

第4遊撃隊は7月10日に北側の久志岳あたりまで北上し、第3遊撃隊長の村上隊長と合流。岩波隊長は秘密遊撃戦に移行することを宣言し、7月16日に部隊を解散して隊員を帰還させ、情報収集や食料調達を続行させた。地元住民を通じての米軍の下山勧告もあり、10月2日、中隊長らとともに投降した[8]

  • 第二護郷隊の慰霊碑[6]

護郷隊の戦後編集

村上隊長は戦後、犠牲者の家を訪ね歩き、元少年兵と交流を続けた。一方で、激しいゲリラ戦の体罰や戦闘を経験した少年兵たちの心の傷は長年癒えることがなかった[9]。住民が避難するのに必要な橋をあらかじめ破壊したこと、故郷の家々を燃やしたこと、制裁や自決を迫られたこと、ゲリラ戦などの記憶は深い心の傷となり[10]、総じて護郷隊についての長い沈黙をもたらした。

参考文献編集

  • 川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』 吉川弘文館 (2018/4/18) ISBN 978-4642058667
  • NHKスペシャル取材班『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫 (2019/8/1) ISBN 978-4104056071
  • 三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』 集英社 (2020/2/22) ISBN 978-4087211115

映像編集

  • 2015年8月11日、長年沈黙されてきた護郷隊について、これまでの研究を基盤にして NHK スペシャル・アニメドキュメント『あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~』が製作、放映された。
  • 2018年7月28日、映画監督でジャーナリストの三上智恵大矢英代が監督したドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』が公開され、大きな話題をよんだ[11]

関連項目編集

沖縄の学徒隊

陸軍中野学校

鉄血勤皇隊

脚注編集

  1. ^ a b NHKスペシャル取材班『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫 (2019/8/1)
  2. ^ a b 報道制作局, 琉球朝日放送. “特集 島は戦場だった 少年護郷隊” (日本語). QAB NEWS Headline. 2020年3月17日閲覧。
  3. ^ 護郷隊へ入隊 | 証言 | 戦世の記憶 戦争体験者多言語証言映像” (日本語). www.peace-museum.pref.okinawa.jp. 2020年3月17日閲覧。
  4. ^ 野村昌二 (20180630T113000+0900). “「捨て石の捨て石」沖縄戦で招集された少年ゲリラ兵「護郷隊」の真実 〈AERA〉” (日本語). AERA dot. (アエラドット). 2020年3月17日閲覧。
  5. ^ 沖縄戦元隊員証言、護郷隊少年兵が互いに制裁”. ryukyushimpo.jp. 琉球新報. 2020年3月17日閲覧。
  6. ^ a b 智恵, 三上 (2019年1月16日). “特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ” (日本語). マガジン9. 2020年3月18日閲覧。
  7. ^ 智恵, 三上 (2019年6月12日). “第91回:『沖縄スパイ戦史』番外編・護郷隊を描き、詠む 元少年兵・平良邦雄さん(三上智恵)” (日本語). マガジン9. 2020年3月17日閲覧。
  8. ^ 読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争”. www.yomitan.jp. 2020年3月18日閲覧。
  9. ^ Asahara, Hirohisa (2018年7月20日). “少年ゲリラ兵、マラリア、住民虐殺── 『沖縄スパイ戦史』が描く戦争の実相” (日本語). Vice. 2020年3月18日閲覧。
  10. ^ neverforget1945 (-783785642). “かつて「護郷隊」とよばれた少年兵がいた - 帰ってきた少年に日本兵は「なぜ死ななかったのか」と” (日本語). Battle of Okinawa. 2020年3月17日閲覧。
  11. ^ 映画『沖縄スパイ戦史』公式サイト|三上智恵×大矢英代 監督作品”. www.spy-senshi.com. 2020年3月18日閲覧。