豊原市(とよはらし)は、日本の領有下において樺太(南樺太)に存在した唯一のである。

とよはらし
豊原市
廃止日 1949年6月1日
廃止理由 国家行政組織法施行
現在の自治体 ユジノサハリンスク
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 樺太地方
都道府県 樺太庁 豊原支庁
面積 647.7km2.
総人口 37,160
1941年12月1日
隣接自治体 豊栄郡豊北村
大泊郡富内村千歳村
留多加郡留多加町
真岡郡清水村
豊原市役所
所在地 樺太庁豊原市東3条南6丁目
豊原市役所
1.豊原市
特記事項 1943年4月1日以降は北海地方に所属。
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樺太庁及び豊原支庁が置かれ、日本領有下における政治経済文化の中心であった。市街地は、札幌市と同様、を中心とした「碁盤の目」状の都市計画によって建設され、市内には運動場を併設した公園競馬場を有していた。住居表示は東西が「条」、南北が「丁目」となっていた。ほぼ東西に走る真岡通り(現:サハリーンスカヤ通り)とほぼ南北に走る豊原大通り(現:レーニナ通り)との交点が座標平面の原点に当たる。

人口の増加に伴い、空港の建設等を含む更に大規模な都市整備が計画されていたが、太平洋戦争の勃発により実現しなかった。1937年の市制施行により豊原市は旭川市に代わって日本最北の市となり、樺太が内地に編入された1943年以後を含めて、日本最北端の行政中核都市として機能していた。

当該地域の領有権に関する詳細は樺太を、現状に関してはユジノサハリンスクおよびサハリン州を参照の事。

豊原市 空撮画像
真岡通り

地理編集

 
1933年(昭和8年)以降の豊原中心部。豊原競馬場が豊原駅の南西に移転している(昭和7年以前には豊原競馬場は豊原市街東方の樺太神社に隣接するスポーツ施設がある場所に存在した)。

西樺太山脈鈴谷山脈に挟まれた鈴谷平野(豊原平原)にある。

歴史編集

沿革
 
ウラジミロフカ村の街並み
 
豊原市制施行記念祝賀行列

政治・行政編集

行政編集

樺太が日本領に編入されて以降、樺太には府県に相当する広域の自治体が設置されず、日本政府が中央省庁の一として樺太庁を設置して樺太の地方政治と地方行政を実施してきた。府県の範囲では国の直轄であったものの、市町村としては民選の豊原市長(豊原町長)が首長を務める法人格を有する自治体が設置された。豊原は自治体として豊原町から豊原市に至る変遷を経ている。

 
樺太庁庁舎

市長編集

立法編集

樺太全域としては日本政府が直接に「樺太庁」を設置したため議会は設置されなかった。豊原市および前身となる豊原町では地方議会である「豊原市会」(豊原町会)が設置されていた。

 
豊原市役所
  • 豊原市役所 - 旧ソ連治世下後の一時期、ソ連軍徴兵局として再利用されていたが、ソ連崩壊後から現在ではサハリン州所有ビジネスビル「サフィンツェントル別館」(本館はコンベンション施設兼日露貿易関連施設)となっている。

司法編集

裁判所の管轄は樺太地方裁判所と豊原区裁判所に属していた。

 
樺太地方裁判所

経済編集

産業編集

 
王子製紙豊原工場
  • 王子製紙豊原工場 - 1945年まで稼動。ロシア治世下後の一時期、「㈱ユジノサハリンスク実験修理機械工場」として再利用されていたが、現在は複数の製造業やFMラジオ放送局「シティ・サハリン」(キー局:ラヴ・ラジオ)、その他、複数の商業施設となっている。
  • 樺太製糖豊原工場 - 現在は市内地元菓子メーカー「サハリーンスカエ・カンヂチェートルスカエ・オーブシシェストヴァ(ロシア語表記:САХАЛИНСКОЕ КОНДИТЕРСКОЕ ОБЩЕСТВО)菓子工場として、SAKOブランドを冠した同社製品が市内各地で販売されている。SAKO公式HP(ロシア語)旧樺太製糖株式会社豊原工場との関係解説HP
  • 乾留工場 - 旧ソ連およびロシア治世下後の一時期、自動車部品倉庫に再利用されていた。

地域編集

官公署編集

 
樺太鉄道局
 
豊原郵便局
 
樺太庁中央試験所

医療機関編集

 
樺太庁豊原医院

教育編集

以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[1]

国民学校編集

  • 樺太公立豊原第一国民学校(敷地の南北中央を東西に横切るネヴェリスコヴォ通りにより敷地は南北に分割。北側区画には現ドラッグストア「パラツェーリス(ロシア語表記:Парацельс)」および現美容院「スヴェトラーナ(ロシア語表記:Светлана)」が立地し、南側区画には現ロシア政府機関「フェデラーナリエ・ブチー(ロシア語表記:Федеральное БТИ。「連邦BTI」のロシア語訳)」が立地。その他、フルシチョフカ様式アパート数棟が立地。グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より北西側)グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より北東側)グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より南西側)グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より南東側)
    • 現在、南方向に隣接する区画に立地している「ジエツカヤ・フドジェストヴェンナヤ・シュコーラ(ロシア語表記:Детская художественная школа。「児童美術学校」のロシア語訳)」の先代校舎として再利用されていたかは不明(調査中)。
  • 樺太公立豊原第二国民学校(現「ギームナジーヤー No.2」(ロシア語表記:Гимназия №2。「第二体育館」のロシア語訳) - グーグル・ストリートビュー画像
  • 樺太公立豊原第三国民学校(現「ヴァストーチナヤー・ギームナジーヤー」(ロシア語表記:Восточная Гимназия。「東部体育館」のロシア語訳) - グーグル・ストリートビュー画像
  • 樺太公立豊原第四国民学校
    • 大沢分教場
  • 樺太公立唐松国民学校
  • 樺太公立並川国民学校
  • 樺太公立清川国民学校
  • 樺太公立大富国民学校
  • 樺太公立下並川国民学校
  • 樺太公立軍川国民学校
  • 樺太公立緑川国民学校
  • 樺太師範学校附属国民学校

中等学校編集

 
樺太庁豊原中学校
 
樺太庁豊原高等女学校

高等教育機関編集

 
樺太師範学校

報道機関編集

 
樺太日日新聞 社屋

金融機関編集

 
北海道拓殖銀行 豊原支店

商業施設編集

 
1930年代尖塔形状塔屋がある中央建物は旧大江戸百貨店豊原本店。新古典主義様式である白色の右側建物は三越百貨店旧豊原店

宗教施設編集

2000年代半ば前後および2010年代半ば前後に、神奈川大学が訪露。現地で現況を調査し、下記論文をまとめている(両論文共にネット上で公開)。

その他、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターによる研究結果がまとめられた下記研究論文

および郷土史家・北海道ポーランド文化協会会員「尾形芳秀」による下記研究論文(駐日ポーランド大使館主催講演会にて講師を務めた同氏が執筆)でも実態解明が進められている(こちらも両論文共にネット上で公開)。

神道系編集

 
現在の旧樺太神社跡地に造られたコンクリート製の宝物殿風建造物
  • 官幣大社樺太神社主祭神大国主神大己貴命少彦名命) - 当時の住所は「豊原市豊原町旭ヶ丘」。例祭日は毎年8月23日。 現在、当時の建造物は全て解体撤去されており、跡地には1963年に建てられたコンクリート製3階建て洋館(旧ソ連時代に建てられた共産党幹部専用迎賓館。ペレストロイカを機に市営ホテル「ゴルカ」となり、現在は会社事務所となっている)と、建造時期や建造目的がはっきりとしていない宝物殿風デザインのコンクリート製高床式建造物が残っている[2]。内側の壁にロシア語の文章が刻印された大きな金属プレート(Google提供の当該画像)が掲げられている宝物殿風建造物の管理は事実上放棄状態に近く、内部は心無い落書きで荒らされている。他の詳細については、ロケットニュース24による現況解説記事を参照の事。
  • 追分神社主祭神:天照皇大神、豊受大神、八幡大神天御中主大神、西久保豊一郎命(西久保豊一郎陸軍歩兵少佐)、他18柱) - 当時の住所は「豊原市追分」。所在地は現在、ホルムスコエ・ショッセ(「ホルムスク街道」のロシア語訳。ロシア語表記:Холмское Шоссе)北東側沿いに立地している自動車販売店「サーフ・スピェーツ・テーフ(ロシア語表記:Сах Спец Тех)」付近。グーグルストリートビュー画像
  • 西久保神社主祭神:西久保豊一郎命(西久保豊一郎陸軍歩兵少佐) - 当時の住所は「豊原市西久保大字軍川字軍川」。所在地である旧軍川地区は現在、放射形状に再区画されダーチャ一大集積地区になっている。

仏教系編集

 
1929年(昭和4年)の豊原市街地図。幾つかの寺院名・立地場所が確認出来る。
  • 景行寺 - 豊原大通り(現レーニナ通り)と現ハバロフスカヤ通りが交差する角地(北西側区画)のやや奥に立地していた(ちなみに同交差角地の北東側区画には北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)が立地)。現在、建物は現存せず、跡地に家具・建築資材店「ドーム・メーベリ(「家具の家」のロシア語訳)」が立地している。グーグル・ストリートビュー
  • 日蓮寺 - 現パピェードゥイ通り南側にT字に繋がる東一条通り(現アムールスカヤ通り)沿い(「樺太公立豊原第二国民学校」(現「ギームナジーヤー No.2(「第二体育館」のロシア語訳。ロシア語表記:Гимназия №2」)」)南西近隣付近)に立地していた。建物は現存せず跡地にはフルシチョフカ様式アパート群が林立している。グーグル・ストリートビュー
  • 乗願寺 - 上述の「日蓮寺」西方向に隣接して(同じく現パピェードゥイ通り南側および東一条通り(現アムールスカヤ通り)沿いに)立地していた。1974年頃迄には、地区郵便局建物として利用されていたが、現在、建物は現存せず跡地には美容院「ユージュナヤ(ロシア語表記:Южная。「南」のロシア語訳)」、スーパー「ガストロノム・ユジュニ(ロシア語表記:。「ユジュニー食料品店」のロシア語訳)」、ドラッグストア「アプチェーカ № 24(ロシア語表記:Аптека № 24。「第24薬局」のロシア語訳)」、靴店「ラルフ・リンガー」が立地している。グーグル・ストリートビュー
  • 法恩寺 - 南三丁目および現クリリスカヤ通り南側付近に立地していた。グーグル・ストリートビュー
  • 慈恵院 - 南八丁目および現「チェーハヴァ通り」現「ラジュジェストヴェーンスカヤ通り」現「クラースナヤ通り」に囲まれた付近に立地していたが、現在、建物は残っていない。跡地南西部分には商業施設「スラビヤンスキー・バザール」、同南東部分にはフルシチョフカ様式アパート、同北西部分には生地店「リュビーマエ・ヂェーラ(ロシア語表記:Любимое дело。「好きな商売」のロシア語訳)」、国際宅配便「クリイェール・セルヴィース・エクスプリェース(ロシア語表記:Курьер Сервис Экспресс。「特急宅配便」のロシア語訳)」、「ソーガス保険(ロシア語表記:Согаз)」、高級喫茶「チェールナヤ・コーシュカ(ロシア語表記:Черная кошка。「黒猫」のロシア語訳)」、同北東部分にはエステティックサロン「グロッス(ロシア語表記:Глосс)」、日焼けサロン「ソーリャリー・リュークス(ロシア語表記:Солярий Люкс)」、喫茶「ブランチ・カフェ」、建築会社「エスカーエフ・スフェーラ(ロシア語表記:СКФ "Сфера"。「SKF球」のロシア語訳)」が立地している。グーグル・ストリートビュー(北西角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(北東角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(南西角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(南東角より中央方向)
  • 弘法寺 - 1974年頃迄には、住居として利用されていた。

本記事の冒頭付近にて画像掲載されている「1933年(昭和8年)以降の豊原中心部」地図にて、「寺」とのみ記載されている(ちなみに「1929年(昭和4年)の豊原市街」地図ではまだ存在していないらしく未記載)下記寺院は、上述した弘法寺もしくは別の寺院かは不明。

キリスト教(ロシア正教会)系編集

豊原市には、日本国籍帰化した在日ロシア人ロシア革命共産主義を嫌って無国籍のまま政治亡命・滞在中の白系ロシア人など残留ロシア人も在住していた。その他、「ヌツァ・アイヌ(「ロシア・アイヌ」のアイヌ語訳)」とアイヌ系日本人全般から侮蔑され少数派だったロシア正教信奉アイヌ系日本人や仏教から改宗した日本人などが僅かに存在していたとされる。

1911年、ロシア正教会宗務院モスクワ総主教およびモスクワ総主教庁の代行機関(1721年~1917年の「聖務会院時代」にのみ存在))により「樺太教区」設立。1911年9月にはゲオルギー・アレクセーヴィチ・チホミーロフ京都教区主教(当時。20年後である1931年、日本府主教に昇格)および宣教師ニコライ・クジミンが移動式祭壇を豊原市内に運び入れ、日本政府の協力(教会用地の10年間無償供与)の基、市内での教会設立を目指したとされる。

  • スモレンスク聖堂(フラム・スモレンスコイ・イコニ・ボジエイ・マテリ(Храм Смоленской иконы Божией Матери)) - 主に生神女イエスの母マリア)を祀っている。市内北東部地域(豊原大通り(現レーニナ通り)と鈴谷川(現ススヤ川)の交差近辺)に立地。前身自治体であるウラジミロフカ村より存在し、開所前夜には(サハリン島南部も訪れていた)作家チェーホフも牧師達と一緒にここで一夜を過ごしていたとされている。グーグルストリートビュー画像

キリスト教(カトリック)系編集

日本が日露戦争に勝利して南樺太を領有する以前から、流刑犯として強制移住させられていたポーランド系ロシア人(主にポーランド独立運動参加者。「ポーランド独立運動」の詳細については「ポーランド立憲王国#ウィーン体制の動揺とロシアの専制政治」および「ポーランド#独立運動の時代」および「在日ポーランド人#歴史」参照の事)および(ポーランド以外の)カトリック圏から諸般の事情でロシア帝国に移住の後に政治犯扱いされ流刑された諸外国人など。

その他編集

交通編集

空港編集

鉄道路線編集

道路編集

 
西1条通り(現クリューコヴァ通り)

著名な出身者編集


脚注編集

  1. ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1677、p. 1692 - 93
  2. ^ 書籍「'94サハリン紀行 北緯50度線を越える鉄道の旅」(共著:小林博明三田真弘、出版:日本興行株式会社)第3章 サハリン最後の夜

関連項目編集

外部リンク編集