費 曜[1](ひ よう、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。

費耀

生涯

編集

延康元年(220年)5月[2]、張進らが酒泉で反乱を起こすと、曹真の命を受けこれを討伐。張進らを斬り殺した[3]

黄初2年(221年)11月[2]張既と共に、反乱した盧水胡の伊健妓妾・治元多を討伐。張既の速攻策に従って大勝を収めた[4]

以降の事績は、蜀漢北伐への対応となる。太和2年(228年)正月、張郃と共に諸葛亮軍の先鋒を撃破した[5]。12月には諸葛亮が陳倉を包囲したため、増援として派遣された[6]。諸葛亮は兵糧が尽きると撤退した[7]

太和4年(230年)、後将軍の官にあり、魏延らの侵攻を陽谿で迎撃したが、撃ち破られた[8]

太和5年(231年)、司馬懿の指揮下で諸葛亮を迎撃したが、また敗戦を喫した。司馬懿はこれ以降要害にこもり、諸葛亮との交戦を避けて、退却へと追いやった[9]祁山の戦い)。

三国志演義

編集

小説『三国志演義』では費耀と表記される。

ある日、魏から蜀に降った姜維の腹心と名乗る者が魏陣を訪れ、姜維からと言って手紙を渡す。その内容は「もしも帰参が許されるならば、蜀軍の食料庫を焼き払う所存です」というものだった。曹真はこれを大いに喜び、姜維の帰参を許すと伝えさせるが、費耀は諸葛亮の策略ではと疑う。しかし曹真も譲らず、結局費耀が兵を率いて姜維と出会い、曹真は本陣に留まることになる。

初めの内は姜維の話どおりに事が進むが、費耀が異変に気づいた時には既に遅く、退路を絶たれ戦いの大勢は決していたため、降伏を拒み自決してしまう。結局5万の魏兵の内、3万以上が討ち死に。生き残った兵も皆、蜀に降ることとなる。

脚注

編集
  1. ^ 陳寿三国志』では費曜の他、蜀書の一部で費瑶・費繇の表記が見られる。
  2. ^ a b 『三国志』魏書 文帝紀
  3. ^ 『三国志』魏書 曹真伝
  4. ^ 『三国志』魏書 張既伝
  5. ^ 『三国志』蜀書 姜維伝注『魏略
  6. ^ 『三国志』魏書 明帝紀
  7. ^ 『三国志』蜀書 諸葛亮伝
  8. ^ 『三国志』蜀書 魏延伝
  9. ^ 諸葛亮伝注『漢晋春秋