資源科学研究所
資源科学研究所(しげんかがくけんきゅうじょ)は、かつて日本に存在した、資源調査を目的とした研究機関。通称、資源研(しげんけん)。
概要編集
資源科学研究所官制(勅令第1064号、12月8日公布)に基づき、大東亜戦争時に大陸の資源調査を目的として文部省によって1941年(昭和16年)12月8日に設置された研究機関。動物、植物、地質、地理、人類の5部門で発足した。研究所は青山の高樹町にあった。1945年(昭和20年)5月のアメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)を受けて高樹町にあった施設は焼失した。
英名は、"Research Institute for Natural Resources"(中川宏 1959)。
戦後、GHQの指示を受け閣議で廃止が決定される。しかしながら文部省などの研究委託により存続しつづける。設立時の目的は失ったものの、戦後は国内の資源調査を業務の柱とした。戦災からの復興にあたり1946年(昭和21年)に新宿区百人町の陸軍技術研究所跡へ移転した。
1971年(昭和46年)、国立科学博物館に吸収合併されることにより閉所した。一部のコレクションおよび職員は国立科学博物館に引き継がれた。ただし資源調査の業務は引き継がれなかった。現在、国立科学博物館の研究部門がある新宿区百人町の敷地は資源科学研究所の跡地である。
研究活動に当たっては、研究室単位による運営ではなく、テーマごとに柔軟に結成される研究班単位で行われていたことが特筆される[1]。
開所当初から閉所に至るまで資源科学研究所彙報を発行していた。敗戦後の混乱期にも研究報告を出版している。
国立科学博物館との合併の経緯編集
合併は国立科学博物館側の要請だった。当時の国立科学博物館は現在と異なり上野公園の一角に所在するだけであり、手狭になっていた。敷地は限られており増築ができず、また上野公園内であったために高層化するわけにもいかなかった。筑波研究学園都市に移転する構想があったものの、東京から遠隔地であることや、学園都市の建設がいっこうに進まないことを理由に断念することになった。こうした中、資源科学研究所の敷地が注目されることになり、両者の合併、上野にあった研究部門の移転が実施されるに至った[2]。
沿革編集
関連人物編集
関連事項編集
- 外邦図 市ヶ谷の陸軍参謀本部が所持していた外邦図はGHQからの接収を避けるため、戦後からサンフランシスコ講和条約締結までの間、資源科学研究所で保管されていた。また、資源科学研究所自身も戦前から外邦図を所持していた。その後これらの外邦図は、各地の大学や研究機関へ頒布された[4]。
脚注編集
参考文献編集
- 国立科学博物館, 1977. "国立科学博物館百年史". p650
- 堀克重 (1950), “仙臺に於ける猩々蠅の種類と攝食活動の日週期性に關する觀察”, 動物学雑誌 59 (2): 66
- 堀克重; 牛越久 (1960), “Orthella pacifica Zimin, 1951 について”, 衞生動物 (日本衛生動物学会) 11 (1): 55
- 中川宏 (1959), “Two new Mallophaga from the large white-rumped swift Apus pacificus pacificus (LATHAM), 1801”, 衞生動物 (日本衛生動物学会) 10 (3): 164-168