賈 耽(か たん、730年 - 805年)は、の政治家。敦詩元靖滄州南皮県の人。国内外の地図や地理書を編纂したことで知られる。

生涯編集

天宝10載(751年)に科挙の明経科に合格して[1][2]貝州臨清県尉の任についた。その後山南西道節度使・山南東道節度使などを経て、貞元9年(793年)には右僕射同中書門下平章事宰相に相当)の職にのぼり、魏国公に封ぜられた。没するまで13年間にわたって宰相職にあった[3]

賈耽は地理学を好み、外国からの使者や外国から帰った者からその土地の情報を得た。おそらく興元元年(784年)に『大唐国要図』5巻を編纂した[4]。貞元14年(798年)に『関中隴右及山南九州等図』1軸および図に附属する『別録』6巻・『吐蕃黄河録』4巻[5]を編纂した[1]。貞元17年(801年)にはまた『海内華夷図』および『古今郡国県道四夷述』40巻を編纂した。『海内華夷図』は100を1で表し、幅3、高さ3丈3尺だった[3](唐の1里は1800尺だったため、縮尺180万分の1の地図ということになる)。翌年には『貞元十道録』を編纂した[2][6]

永貞元年(805年)に没した。享年76歳。没後に元靖の諡を贈られた[3]

著書編集

新唐書芸文志には、賈耽が編纂した地理関係の書物として『地図』10巻、『皇華四達記』10巻、『古今郡国県道四夷述』40巻、『関中隴右及山南九州別録』6巻、『貞元十道録』4巻、『吐蕃黄河録』4巻、および『大唐国要図』5巻をあげている[7]。これらの地図や地理書は早く散佚してほとんど現存しない。

榎一雄によると、『皇華四達記』というのは『古今郡国県道四夷述』の四夷部を独立させたものだろうという[8]

太平寰宇記』はしばしば『古今郡国県道四夷述』とみられる書物を引用している[9]

『新唐書』地理志末尾の四夷に到る道の記述は「道里記」と通称され、賈耽の著書をもとにしている[10]。おそらく『皇華四達記』、すなわち『古今郡国県道四夷述』の四夷部から取られたものだろうと言われる[11]。ここでは7つの道について記述するが、とくに広州通海夷道はインド洋を通って海路ペルシア湾岸に到る道程を記しており、唐代の海上交通に関する貴重な資料になっている。

『貞元十道録』は権徳輿による序が残っており[12]、それによれば『古今郡国県道四夷述』40巻を実用のために要約したものという。王謨『漢唐地理書鈔』に逸文が集められている。また敦煌文献に『貞元十道録』剣南道の残巻があり(P2522)、羅振玉『鳴沙石室佚書』に収録されている。

『海内華夷図』は現存しないが、劉豫阜昌7年(1136年)に縮小して石に刻ませたものが西安碑林に残っている[13][14][15]。しかし地名などは宋代のものを使用しており[16]、本来の形がどれほど残されているかは明らかでない。

脚注編集

  1. ^ a b 鄭余慶『左僕射賈耽神道碑』
  2. ^ a b 『新唐書』賈耽伝
  3. ^ a b c 『旧唐書』賈耽伝
  4. ^ 榎(1994) p.195
  5. ^ 『新唐書』賈耽伝は『河西戎之録』とする
  6. ^ 編纂年は権徳輿の序に「貞元壬午」とあるのによる
  7. ^ 『新唐書』芸文志二
  8. ^ 榎(1994) pp.196-198
  9. ^ 榎(1994) p.195
  10. ^ 『新唐書』地理志七下「其後、貞元宰相賈耽考方域道里之数最詳。従辺州入四夷、通訳於鴻臚者、莫不畢紀。」
  11. ^ 榎(1994) pp.198-200
  12. ^ 権徳輿『魏国公貞元十道録序』全唐文所収)
  13. ^ 『賈耽《海内華夷図》和李吉甫《元和郡県図志》資料介紹』 吉言网、2018年12月2日http://www.jiyan.net/whzs/201812/1992.html 
  14. ^ 『大唐名相辛苦13載絵成最早的亜洲地図』 蝌蚪五线谱 - 北京市科协主办、2018年11月7日http://story.kedo.gov.cn/c/2018-11-07/950357.shtml (ここでは1137年になっているが、阜昌が何年から始まったかについては議論がある)
  15. ^ 『禹迹图』 ワールド・デジタル・ライブラリhttps://www.wdl.org/zh/item/3048/ (ここでは賈耽にもとづくとは書かれていない)
  16. ^ 『华夷图』 国图空間、2017年3月6日http://www.nlc.cn/newgtkj/tssc/mzyj/201703/t20170306_142288.htm 

参考文献編集

  • 榎一雄「賈耽の地理書と道里記の称とに就いて」『榎一雄著作集』7、汲古書院、1994年、192-203頁。ISBN 4762924474(もと『歴史学研究』第6巻第7号、1936年)