賈 諒(か りょう、1382年 - 1439年)は、明代官僚は子信。本貫高唐州武城県

生涯 編集

賈旺と魏氏のあいだの子として生まれた。1411年永楽9年)、郷挙により太学に入った。皇太孫朱瞻基の近侍に選ばれ、書を講説した。1414年(永楽12年)、刑科給事中に抜擢された。1429年宣徳4年)、賈諒は刑部侍郎の金庠が賄賂を受け取っていたとして弾劾し、これを罷免させた。賈諒は郎中の胡玨・蕭翔ら11人や御史の方鼎ら3人に対しても、職務に不適任として弾劾した。宣徳帝は真偽を図りかねて、賈諒と張居傑に命じてひそかにかれらを監察させたところ、賈諒の弾劾は的を射ていたため、かれら全員の官を降格させた。1430年(宣徳5年)、陽武侯薛禄の仲間を不敬として弾劾した。ほどなく右副都御史に任じられた。錦衣指揮王裕・参議黄翰・中官張義らとともに四川江西湖広を巡視し、豪族を調査した。1437年正統2年)、江北・河南洪水が起こると、賈諒は工部侍郎の鄭辰とともに命を受けて赴き、振恤にあたった。芒山・碭山の盗賊を追捕して、多くを捕らえた。1439年(正統4年)1月14日、徳州で死去した。享年は58。

参考文献 編集

  • 明史』巻158 列伝第46
  • 副都御史賈君墓碑(徐紘『明名臣琬琰録』巻22所収)