赤城宗徳
赤城 宗徳(あかぎ むねのり、1904年〈明治37年〉12月2日 - 1993年〈平成5年〉11月11日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(15期)。剣道範士。栄典は正三位勲一等。
赤城 宗徳 あかぎ むねのり | |
---|---|
![]() | |
生年月日 | 1904年12月2日 |
出生地 |
![]() |
没年月日 | 1993年11月11日(88歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科 |
所属政党 |
(無所属→) (翼賛政治会→) (護国同志会→) (日本協同党→) (無所属→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党(岸派→椎名派→河本派) |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 紺綬褒章 衆議院永年在職議員 法学士 |
配偶者 | 妻・赤城ヒサ |
親族 | 孫・赤城徳彦 |
![]() | |
内閣 | 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1971年7月5日 - 1972年7月7日 |
内閣 |
第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 第3次池田改造内閣 第1次佐藤内閣 |
在任期間 | 1963年7月18日 - 1965年6月3日 |
![]() | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
![]() | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
選挙区 |
(茨城県第3区→) 旧茨城3区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 |
1937年4月30日 - 1938年2月14日 1942年4月30日 - 1945年12月18日 1952年10月1日 - 1976年12月9日 1979年10月7日 - 1990年1月24日 |
その他の職歴 | |
![]() 第1次岸改造内閣 (1957年7月10日 - 1958年6月12日) | |
![]() (総裁: 佐藤栄作) (1965年 - 1966年) | |
![]() (総裁:池田勇人) (1961年 - 1963年) |
農林大臣(第32-34、第42代)、内閣官房長官(第17代)、防衛庁長官(第11代)。農林水産大臣を務めた元衆議院議員赤城徳彦は孫。親戚に日本経済団体連合会会長稲山嘉寛がいる。
来歴・人物 編集
茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助[1]を失い、母むめと祖父喜八郎に育てられる。
旧制下妻中学校卒業。旧制水戸高等学校を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。地元の上野村長を経て、1937年衆議院議員総選挙に立候補し初当選する[2]。しかし、その翌年選挙費用の超過により、裁判で「当選無効」となり[3]、衆議院議員を失職する[4]。1942年の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け再選する。当選後、岸信介率いる護国同志会、その後は日本協同党に所属して活動するが、戦後、公職追放を受ける。その最中に行われた1947年の第1回統一地方選挙では妻のヒサが上野村長に当選し、全国で3人生まれた女性首長の一人となった[注釈 1]。
1952年、追放解除後の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選、政界に復帰する。政界に復帰後は吉田茂政権打倒に動き、1954年自由党を離党し鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。その後、1955年、保守合同にともない自由民主党に参加、岸派に属した。
1957年、第1次岸内閣の農林大臣として初入閣する。農相に就任した赤城を待ち受けていたのが日ソ漁業交渉であり、赤城は、イシコフ・ソ連漁業大臣との間に「100日漁業交渉」と呼ばれる激烈な交渉を繰り広げた。この漁業交渉がきっかけとなって、後年赤城は日ソ親善協会会長を務める。第2次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年第2次岸改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年、安保闘争に際して反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、首相岸信介に自衛隊の治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。
1962年、岸が派閥を福田赳夫に譲る言動を取るとそれに猛反発し、川島正次郎、椎名悦三郎らと川島派を結成し岸と決別。川島派を継いだ椎名派が解散した後は三木→河本派に加わった。総務会長時には将来総理となる官房長官大平正芳に「法案の閣議決定の前に総務会にご連絡願いたい」という書簡を送り現状の自民党のシステムを作った。1964年6月、下館市民会館建設費として10万円寄付により1966年2月12日紺綬褒章受章[6][7]。1971年、第3次佐藤改造内閣でも農林大臣を務める。1975年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。1976年の総選挙で落選するが、1979年に国政復帰。1990年に政界を引退し、地盤を(当時農林水産省の官僚だった)孫の徳彦に譲る。
霞ヶ浦高等学校の校長を1956年から1990年まで務めた。1956年から1967年までは学校法人霞ヶ浦高等学校の理事長も兼務した。
著書 編集
- 『その後』鳥羽書房、1938年。NDLJP:1080450。
- 南方圏を視る (長谷長次共著 新日本同志会 1941年)
- パプアの農業建設 ニューギニア開発の方針 (南方建設中央研究所 1943年)
- 『苦悩する農村 農業問題管見』万有社、1953年。NDLJP:2502850。
- わが百姓の記 (平凡社 1958年)
- 『ラテン・アメリカの旅より』全国拓植農業協同組合連合会、1958年。NDLJP:2986334。
- 平将門 (産業経済新聞社 1960年、角川選書 1970年)
- 将門記 真福寺本評釈 (サンケイ新聞出版局 1964年)
- ふるさとの心 (共同通信社開発局, 1966年)
- 記者席からみた国会十年の側面史 安保から安保まで (鈴木孝信共編 サンケイ新聞社出版局 1969年)
- あの日その時 (文化総合出版 1971年)
- 将門地誌 (毎日新聞社 1972年)
- 今だからいう (文化総合出版 1973年)
- 初心生涯 (文化総合出版 1975年)
- 赤城宗徳と平将門 (楡の木会 1976年6月)
- 『素顔のソ連邦』徳間書店、1980年12月。NDLJP:11926983。
- 『日ソ関係を考える 激動の大正・昭和を生きて』新時代社、1982年4月。NDLJP:11926841。
- 私の平将門 (崙書房 1983年11月)
- わが百姓の記 日本の農業と農村を想う(筑波書林、1985年)、小冊子
系譜 編集
- 赤城氏
中曽根康弘 ┃ ┣━━━┳美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━蔦子 ┃ ┗美恵子 ┏渥美昭夫 ┃ ┃ ┃ 渥美育郎━━━╋渥美謙二 ┃ ┃ ┃ ┗渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 ┃ 鹿島守之助 ┃石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣よし子 鹿島精一 ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━卯女 ┣三枝子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━いと ┗鹿島昭一 ┃ ┃ ┏公子 梁瀬長太郎━梁瀬次郎━━━━┫ ┗弘子 ┃ ┃ ┏━━━━稲山孝英 稲山伝太郎━稲山嘉寛━━━┫ ┗━━━━稲山繁孝 ┃ 赤城喜八郎━━赤城康助 ┃ ┃ ┏━━赤城正武━━博子 ┣━━━┫ ┃ ┗━━赤城宗徳 むめ ┃ ┣━━━━━━赤城毅彦━━━赤城徳彦 ┃ ヒサ
脚注 編集
注釈 編集
出典 編集
参考文献 編集
関連項目 編集
議会 | ||
---|---|---|
先代 林百郎 |
衆議院懲罰委員長 1980年 - 1981年 |
次代 中野四郎 |
公職 | ||
先代 倉石忠雄 重政誠之 井出一太郎 |
農林大臣 第42代:1971年 - 1972年 第32-34代:1963年 - 1965年 第25代:1957年 - 1958年 |
次代 足立篤郎 坂田英一 三浦一雄 |
先代 伊能繁次郎 |
防衛庁長官 第11代:1959年 - 1960年 |
次代 江﨑真澄 |
先代 愛知揆一 |
内閣官房長官 第19代:1958年 - 1959年 |
次代 椎名悦三郎 |
党職 | ||
先代 周東英雄 |
自由民主党政務調査会長 第13代 : 1965年 - 1966年 |
次代 水田三喜男 |
先代 保利茂 |
自由民主党総務会長 第8代 : 1961年 - 1963年 |
次代 藤山愛一郎 |