赤山靭負

赤山 靭負(あかやま ゆきえ、文政6年1月17日1823年2月27日) - 嘉永3年3月4日1850年4月15日))は、幕末薩摩藩の重臣。は久普(ひさひろ)。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴、弟に西郷隆盛と親交を結び、西南戦争で戦死した桂久武がある。藩職は奥小姓、槍奉行を務める。

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経歴編集

生家の日置島津家は薩摩藩内では一門家に次ぐ名門であり、一所持の中でも特別な存在である大身分に属し、代々家老をはじめとする重役についていた。また元服時に次男家まで藩主直々に加冠されるという特権をもっており、これは一門家以外では日置島津家だけに与えられていた。このため久普も天保4年12月19日に藩主・島津斉興手ずからの加冠を受け、元服している。

天保12年(1841年)4月8日に小納戸見習行奥小姓となり、同15年(1844年)7月22日に江戸滞在中に供目付を兼務する。弘化3年(1846年)5月6日鑓奉行[1]の職に就任し、翌年には名越左源太や郷田仲兵衛とともに軍役方掛となる。

島津斉彬の襲封を願う一派の中心的人物であったが、お由羅騒動切腹を命ぜられた。西郷隆盛の父・西郷吉兵衛(諱は隆盛)が、御用達として出入りしており、介錯を依頼される。吉兵衛は靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の隆盛に、この肌着を与え、その最期を伝えた。隆盛は靭負の生き様に大きく共感したという。

しかし、これは誤りで、実際は剣豪家の加藤新平に頼んだという説もある。この誤説の原因は、西郷隆盛の曽祖父・吉兵衛(諱は不明)が大山貞政の門人として当時の城下では名が知られていたらしく、このことによると思われる。

脚注編集

  1. ^ なお、資料によっては物頭と書かれるが、『島津家列朝制度』によると天明6年に物頭兼務の職として鉄砲奉行、鑓奉行、弓奉行の職が新設され、3奉行兼務の物頭は単独の物頭の下に置かれる。寛政10年に単独の物頭職が廃止されるとその職務は鉄砲奉行、鑓奉行、弓奉行が引き継ぐことになり、この3奉行の総称を『物頭』というようになった。このため、『物頭』とする記述も間違いというわけではない。

参考文献編集

  • 『日吉町郷土誌 上』
  • 『三州御治世要覧』
  • 『鹿児島県史料 薩摩藩法令集四』

関連作品編集