赤松教政

室町時代中期の武将

赤松 教政(あかまつ のりまさ)は、室町時代中期の武将

 
赤松 教政
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 嘉吉3年(1443年
別名 三郎(通称)、祐政(すけまさ、別名)
官位 播磨守
氏族 赤松氏(大河内流)
父母 父:赤松満政
兄弟 満直教政
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赤松満政の子。赤松系図では嘉吉の乱ののちに赤松家惣領に任命された満直の兄とされているが、弟とする説もある[注釈 1]。嘉吉3年(1443年)7月28日、赤松家残党に奉じられて山名宗全の守護国となっていた播磨で挙兵したが、宗全により討伐された。教政は摂津に逃亡して自殺した。

ただし、父の満政と共に殺害されたともされている[2]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 満直は幼名が次郎、教政は三郎である[1]。教政の「教」の字は嘉吉の乱で暗殺された第6代将軍足利義教から1字を賜ったものとみて間違いはないだろう。一方、満直の「満」は第3代将軍足利義満(義教の父)に由来する字であるため、将軍の順序だけで見れば満直が兄で先に元服したものと断定できるが、「満」の字は祖父・満則や父・満政も使用しており、加えて年代的なことを踏まえれば、義満から直接賜ったのではなく、満則・満政・満直と連続して使用している可能性が高く、断定はできない。強いて、父・満政の名前の上の字(1文字目の「満」)を与えられた満直が兄、下の字(2文字目の「政」)を与えられた教政が弟と考えることもできるがこれも明確な証拠はない。

出典 編集

  1. ^ 高坂好『赤松円心・満祐』吉川弘文館人物叢書〉、1970年、264頁。 
  2. ^ 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、10頁。