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赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩[要出典])主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城[要出典]日本100名城日本の歴史公園100選にも選定されている。

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赤穂城
兵庫県
大手門と大手隅櫓
大手門と大手隅櫓
別名 加里屋城
城郭構造 変形輪郭式海岸平城
天守構造 建造されず
築城主 浅野長直
築城年 1648年(慶安元年) - 1661年(寛文元年)
主な改修者 浅野長直
主な城主 浅野家、永井家、森家
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡
指定文化財 国史跡、国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)
再建造物 櫓・門、二之丸庭園(復元中)
位置 北緯34度44分44.41秒
東経134度23分20.34秒
座標: 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒
地図
赤穂城の位置(兵庫県内)
赤穂城
赤穂城
1本丸 2二之丸 3三之丸 A大手門 B本丸門
本丸南の石垣と堀

概要編集

江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。

赤穂城の前身となる城郭は、池田長政によって慶長5年(1600年)に築城されたとされる「掻上城」である。「掻上城」は絵図や発掘調査から、現在の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている[1][2]。その後も池田家の家臣で赤穂郡代となった垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる。[3]

正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側に三之丸が二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者近藤正純によってなされた[1][3]

またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺の手直しがなされたとされ、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[4]

最終的に寛文元年(1661年)に赤穂城は完成し[1]、着手から13年かかって完成している。

完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んだ。[5]本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。

明治時代前期に城内の建物は破却、土地の大部分が民間へ払い下げられたため、一部の石垣のみを残し、田畑化・宅地化した。本丸には小学校などが設置されるなど、公共施設の用地として利用された。1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、兵庫県立赤穂高校(旧制赤穂中学)の敷地となり、西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた[2]

1955年(昭和30年)には古写真を参考に大手隅櫓、大手門(高麗門)が建築されている[1]。1971年(昭和46年)には赤穂城跡が国史跡に指定され、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二之丸庭園の復元整備が進められている。現在、本丸には、本丸門や本丸御殿の間取り、発掘調査でみつかった庭園などが復元整備され、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。

赤穂城は5万石の石高の割には規模の大きい城である[要出典]。5層天守の造営も計画されていた[要出典]幕府への遠慮か財政難のためか造営されず、天守台のみが今日に残っている。

赤穂城は海岸に近く標高が低いため、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、千種川の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水していた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ、日本三大上水道の一つに数えられている。

赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』[6]森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久赤穂事件』[7]が起きている。

歴史編集

加里屋城・大鷹城[要出典]時代編集

  • 1452~1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城(『播州赤穂郡志』[8])。この地での最初の築城となる[要出典]
  • 1600年(慶長5年) 姫路藩主・池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり、赤穂城の前身である「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城。(『播州赤穂郡志』[8]
  • 1613年(慶長18年) 赤穂は輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される。(『播州赤穂郡志』[8]
  • 1615年(元和元年) 忠継の弟・政綱が3万5000石を与えられ赤穂藩が立藩。御殿が造営される。
  • 1631年(寛永8年) 政綱が嗣子なく死去し、弟の輝興が入封。さらに櫓・馬屋を造営。
  • 1645年(正保2年) 輝興、発狂により刃傷沙汰の後、改易(正保赤穂事件)。城は備中松山藩主・水谷勝隆預かりとなる。同年、浅野長直が5万3000石で入封する。

赤穂城時代編集

  • 1646年(正保3年) 近世城郭建設のため、近藤正純が設計図を作成[要出典]。石材採掘にも取り掛かる。
  • 1648年(慶安元年) 6月17日(新暦8月5日)に幕府に築城計画を提出、築城開始。[1]
  • 1652年(承応元年) 赤穂藩主浅野長直の招きで、江戸屋敷で藩士に兵学を教えていた山鹿素行が赤穂に7カ月滞在して二の丸周辺の設計を変更。
  • 1661年(寛文元年) 赤穂城が完成する。
  • 1694年(元禄7年) 3代浅野長矩の弟・長広は播磨国赤穂郡の新田3000石を分与され、旗本の寄合に列する。
  • 1701年(元禄14年) 勅使饗応役に任ぜられた長矩江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により浅野氏改易となる。城は播磨龍野藩主・脇坂安照預かりとなる。
  • 1702年(元禄15年) 永井直敬が3万3000石で入封。同年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられる(宝永7年(1710年)に長広は、安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野氏は、安房国で続くことになる)。
  • 1706年(宝永3年) 直敬は、信濃国飯山藩へ転封となり、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。森家は、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封することになる。
  • 1857年(安政4年) 藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し長州藩へ奔る。
  • 1862年(文久2年) 攘夷派が保守派の家老・森主税を暗殺するという事件が起こる(文久赤穂事件)。

近現代編集

 
1930年代の赤穂城
  • 1871年(明治4年) 廃藩置県により赤穂県となる。
  • 1873年(明治6年) 廃城令により廃城となる。
  • 1876年(明治9年) 飾磨県権県令、赤穂城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却される。
  • 1892年(明治25年) 千種川の洪水発生。災害復旧と千種川流路変更のため、二之丸門から清水門までの石垣を護岸築石に転用。城郭石垣の破壊が進む。
  • 1897年(明治30年) 大石神社建立のため、大手門枡形の南側と北方多門を埋める。
  • 1923年(大正12年) 大石内蔵助邸が国の史跡に指定される。
  • 1928年(昭和3年) 本丸に兵庫県立赤穂中学校を開校。
  • 1935年(昭和10年) 大手門前の堀と太鼓橋を復元。
  • 1953年(昭和28年) 本丸の外堀を復元。
  • 1955年(昭和30年) 明治期に撮影された隅櫓の形状と一部異なるが、大手隅櫓と大手門(高麗門)が再建された。
  • 1971年(昭和46年) 赤穂城が国の史跡に指定される。
  • 1981年(昭和56年) 赤穂高校を御崎へ移転させる。
  • 1990年(平成2年) 本丸庭園を復元・整備。
  • 1996年(平成8年) 大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門が再建される。
  • 1999年(平成11年) 本丸門がNHK大河ドラマ元禄繚乱』の撮影に使用される。
  • 2002年(平成14年) 旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定される。
  • 2006年(平成18年) 財団法人日本城郭協会による日本100名城(60番)に選ばれた。
  • 2010年(平成22年) 庭園の西仕切門が復元された。高さ約4.6メートル、幅約3.0メートル。門につながる土塀約10.5メートルも含めて総工費は約3,200万円[9]
  • 2016年(平成28年) 二之丸庭園の部分公開を開始[10]

光の天守閣(ライトアップ)編集

2006年(平成18年)から赤穂青年会議所赤穂義士祭奉賛行事として始めたもので赤穂義士祭が行われる12月14日までの数日間、天守台に天守風の外観になるように建設足場用の鋼管を組み、電球を配線し夜間点灯される[11][12]。年々、天守の高さが高くなっていたが2009年以降は5層となっている[13][14]。本来、赤穂城には天守はなく、歴史的な資料を参考にしているわけではない。

 
天守台に組まれた「光の天守閣」
  • 2006年(平成18年):2層、詳細不明。
  • 2007年(平成19年):3層、電球約1万2,000個、高さ地上約22メートル。
  • 2008年(平成20年):4層、電球約1万5,000個、高さ地上約24メートル、総鋼管8トン。
  • 2009年(平成21年):5層、電球約2万2,000個、高さ地上約30メートル、総鋼管12トン。
  • 2010年(平成22年):5層、電球約3万個、高さ地上約28メートル[15]
  • 2011年(平成23年):5層、電球約3万個、高さ地上約28メートル[16]
  • 2014年(平成26年):天守台にプロジェクションマッピングが投影された[17]
  • 2015年(平成27年):前年に続き光の天守と共に[18]天守台にプロジェクションマッピングが投影された[19]

施設編集

  • 石垣
  • 大手隅櫓 - 三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して昭和30年に建築されたもの。二層の隅櫓を設置[20]
  • 太鼓橋 -正門である三之丸の「大手門」へかかる橋。 1935年(昭和10年)に建築。木造での復元ではない。
  • 大手門(高麗門)-大手門の一部。 昭和30年に建築。江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、現在は失われている。
  • 枡形虎口(ますがたこぐち)・番所 - 大手門を入ると右に折れ曲がる入口[21]。番所跡に模擬番屋(案内所)。番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。
  • 本丸高麗門(こうらいもん) - 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴(狭間)が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
  • 本丸櫓門(やぐらもん) - 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定の日に一般公開されている[22]
  • 天守台 - 天守が築かれた事はないが、「光の天守閣」(前項参照)でプロジェクションマッピングが投影される。
  • 本丸御殿跡 - 本丸庭園は国の名勝に指定。 コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。

支城編集

周辺の文化施設・観光名所編集

参考文献編集

  • 『新版 兵庫県の歴史散歩 下』兵庫県高等学校教育研究会歴史部会、山川出版社〈新全国歴史散歩シリーズ〉、1991年、114-115頁。ISBN 4-634-29580-6
  • 『定本 日本城郭事典』西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、283-285頁。ISBN 4-253-00375-3

脚注編集

  1. ^ a b c d e 赤穂城にまつわる歴史”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  2. ^ a b 『史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書』. 赤穂市教育委員会. (1984). 
  3. ^ a b 『赤穂市史』第二巻. 赤穂市. (1983). 
  4. ^ 赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  5. ^ 赤穂城とは”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  6. ^ 『赤穂城在番日記』ほか。事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた。
  7. ^ 明治政府はこの後に「仇討ち禁止令」を制定している。
  8. ^ a b c 『赤穂郡誌・播州赤穂郡志』. 臨川書店. (1973). 
  9. ^ 赤穂城庭園「西仕切門」の復元完成:赤穂民報2012年4月14日
  10. ^ 兵庫)赤穂城の二之丸庭園、13日から部分公開
  11. ^ “光の天守閣”今年は4層造り 赤穂民報2008年12月10日
  12. ^ 「義士に届け、光の天守」今年は5層赤穂民報2009年12月8日
  13. ^ Vol.23 幻の天守閣!さてさて、今年は何色に輝くでしょう?
  14. ^ 忠臣蔵ウイークの目玉である幻の天守閣!
  15. ^ 今年も「光の天守閣」築城中:赤穂民報2010年11月29日
  16. ^ 月と競演“光の天守閣”赤穂民報2010年12月7日
  17. ^ 赤穂城跡でプロジェクションマッピング試写 義士祭で披露
  18. ^ 忠臣蔵ウイーク5日開幕 幻の天守閣も登場 赤穂
  19. ^ 赤穂城に動く浮世絵投影 忠臣蔵の名場面CG再現
  20. ^ 「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が番所跡に展示されている。
  21. ^ 「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「ここう」と読むと「危険な場所」。
  22. ^ 赤穂城跡のみどころ”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月3日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集