赤間 信義(あかま のぶよし、1889年明治22年)1月21日1942年昭和17年)12月30日)は、日本の文部官僚

あかま のぶよし

赤間 信義
生誕 (1889-01-21) 1889年1月21日
富山県
死没 (1942-12-30) 1942年12月30日(53歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法科大学
職業 官吏
団体 日華学会
肩書き 従三位勲二等
配偶者 ミドリ(南日恒太郎長女)
子供 義洋(長男)、道(長女)、義健(次男・赤間徳寿養子)、義邦(三男)、慶子(次女)
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経歴 編集

富山県出身[1]1914年大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入り、山梨県属、山梨県理事官を務めた。1919年(大正8年)、文部省に転じ、参事官に任じられた。外務書記官文部大臣秘書官兼任を経て、1928年(昭和3年)、実業学務局長に就任。翌年、専門学務局長に転じ、1936年(昭和11年)に退官するまで、在任した。

その他、中国満州国からの留学生受け入れ団体である財団法人日華学会の理事を務め、同学会の運営する東亜学校の学監となった。1938年(昭和13年)からは日本占領下の華北に創設された東亜文化協議会の事務局長、ついで総務部長を務めた。

1940年(昭和15年)、文部次官に就任。退官後は日華学会理事長を務めた。

栄典 編集

 
赤間信義

脚注 編集

  1. ^ 人事興信所編『人事興信録 第13版 下巻』人事興信所、1941年
  2. ^ 『官報』第4796号「叙任及辞令」1943年1月11日。

参考文献 編集

公職
先代
大村清一
  文部次官
  教員検定委員会会長
  維新史料編纂事務局
  学校衛生調査会会長
  震災予防評議会会長
  演劇、映画、音楽等改善委員会会長
  国史館造営委員会会長

1940年
次代
菊池豊三郎
その他の役職
先代
(新設)
日華学会理事長
1941年 - 1942年
次代
杉栄三郎
先代
杉栄三郎
東亜学校学監
1937年 - 1940年
次代
杉栄三郎