趙少康(ちょう しょうこう、1950年民国39年〉5月6日[3] - )は、中華民国台湾基隆市出身の政治家。祖籍は河南省渉県

趙 少康
TVBS宣伝記者会にて(2016年12月21日)
生年月日 (1950-05-06) 1950年5月6日(73歳)
出生地 中華民国の旗 中華民国 台湾省基隆市
所属政党 中国国民党(1968年 - 1994年,2021年 - [1]
新党(1993年 - 2002年[2]
無所属(2002年 - 2021年)
配偶者 梁蕾

中華民国の旗 第1(増額)-2期 立法委員
選挙区 台北市選挙区(1期)
台北市第1区(2期)
在任期間 1987年2月1日 - 1996年1月31日

内閣 郝柏村内閣
在任期間 1991年6月1日 - 1992年11月15日
総統 李登輝

台北市議会
第4-5期 議員
選挙区 第3区
在任期間 1981年12月25日 - 1987年1月31日
テンプレートを表示
趙 少康
職業: 政治家
各種表記
繁体字 趙 少康
簡体字 赵 少康
拼音 Zhao Shao-kang
和名表記: ちょう しょうこう
発音転記: ヂャオ シャオカン
英語名 Jaw Shaw-kong
テンプレートを表示

来歴 編集

中国国民党少壮派と称され、馬英九らと共に改革グループを形成し、李煥郝柏村ら保守勢力などと同じく立法院内での影響力を有し、議会内で民進党議員と乱闘を行なうグループに属していた。1993年民国82年)8月10日、王建煊郁慕明らと共に国民党を離党し、新党を結成した。

趙少康は各選挙で強力な個性を発揮し党勢力を拡大、自身も1992年(民国81年)の立法委員選挙に台北県区から立候補、結果24万票の台湾最高得票数を獲得し、現在小選挙区制が導入された台湾では今後破られることのない金字塔的数字となっている。1994年(民国83年)に台北市長選挙で陳水扁に敗れた後は政治の表舞台に登場することは次第に少なくなり、同年に国民党から除籍されている。

現在はメディア方面で活動し、飛碟電台董事長として、テレビやラジオで政治評論番組の司会者として強烈に陳水扁政権を批判していた。このほかに衛視中文台「新聞駭客」、「超級新聞駭客」(2005年(民国94年)11月放送開始、駭客はハッカーの中国語)、東森新聞台「土曜"不"談政治」(2006年(民国95年)4月放送開始)など多くの番組に出演している。

2021年に国民党に復党。2024年中華民国総統選挙では、当初台湾民衆党との共闘(藍白合作)を模索していたが、破談となったため国民党の副総統候補に選ばれている[4]。そのため、一部の国民党候補が製作したポスターに描かれた侯友宜柯文哲が並んだ写真が、急遽趙少康の絵を柯文哲の写真に上書きするというハプニングが起きた[5]

主張 編集

交渉を通じた中国との統一を主張している[6]

学歴 編集

著作 編集

  • 『与你同行』、1987年
  • 『上班放軽鬆』、1995年、ISBN 9789578081741
  • 『趙少康談霊活職場』、2000年、ISBN 9789574670338
  • 『我"愛"陳水扁』(「愛」は上下反転)、2006年、ISBN 9789868243132
  • 『我笑陳水扁』、2006年、ISBN 9789868243149

脚注 編集

  中華民国
先代
簡又新
環保署長
1991年 - 1992年
次代
張隆盛