趙 梴(ちょう てん、1112年 - ?)は、北宋徽宗の第23皇子(夭逝を除いて第18皇子)。

経歴 編集

貴妃王氏の子として生まれた。同母兄に趙楷、同母姉に崇徳帝姫保淑帝姫熙淑帝姫がいる。相国公の位を授けられた。

靖康の変の際の混乱で、趙梴と容貌がよく似ていた李浩という少年が、軍に誤って捕らえられた。欽宗はこれを幸いとし、機に乗じて本物の趙梴の逃亡を画策したが、失敗した。完顔設野馬(趙梴の異母姉の趙富金の後夫)の干渉で、徹底的な追及は免れた。この頃、金軍に拉致された趙柍(趙梴の異母弟で、明節皇后の子)が軍営で死去した。結局、趙梴が趙柍の名で、李浩が趙梴の名で連行された。

金に到着後(金の天会5年(1127年)6月)、設野馬が太宗呉乞買に願い出て、2人は赦免された。翌月、設野馬は側女の陳桃花(元は徽宗の妃嬪)を趙梴に、耶律氏を李浩に、妻として与えた。その後、趙梴は燕山(北京)に定住した。金の天会8年(1130年)、完顔斜保(趙梴の異母姉の趙珠珠の夫)も側女の孔令則(元は趙柍の婚約者)を趙梴に与えた。

『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで趙梴は金で健在であった。

家族 編集

  • 妻:陳桃花
  • 側室:孔令則
  • 男子:趙成功、趙成式 - 陳桃花の子。
  • 女子:趙氏 - 孔令則の娘。

伝記資料 編集

  • 宋史
  • 『靖康稗史箋證』
  • 『宋会要輯稿』
  • 『三朝北盟会編』