趙 正平(ちょう せいへい)は清末、中華民国の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士。後に南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。厚生厚聖侯声後声夷門。号は仁斎。筆名に南風主人

趙正平
写真週報』1940年4月3日号
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)[1]
死去: 1945年民国34年)
中華民国の旗 中華民国浙江省鎮海
出身地: 江蘇省太倉州宝山県
職業: 革命家・政治家
各種表記
繁体字 趙正平
簡体字 赵正平
拼音 Zhào Zhèngpíng
ラテン字 Chao Cheng-p'ing
和名表記: ちょう せいへい
発音転記: ジャオ ジョンピン
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事跡 編集

清末民初の活動 編集

1904年光緒30年)、浙江武備学堂に入学する。翌年、同学の黄郛らとともに日本への留学生に選抜された。東京振武学校を経て、早稲田大学に入学している。このとき、孫文(孫中山)が結成した中国同盟会に加入した。早稲田大学卒業後に帰国している。

1909年宣統元年)、柳亜子らが蘇州で組織した南社に加入し、以後、革命派のための文筆活動に従事する。辛亥革命にも革命派として参加し、南京臨時政府兵站総監部参謀長、南京留守府交通局局長、江蘇都督府副参謀長を歴任している。1913年民国2年)の二次革命(第二革命)に敗北して海外に逃れ、バタヴィア中華学校校長となった。なお、黄興支持派による欧事研究会にも名を連ねている。

帰国後の1918年(民国7年)、省立曁南学校校長となる。1926年(民国15年)、上海で『太平導報』という雑誌を刊行し、当時の浙閔蘇皖贛五省聯軍総司令・孫伝芳のために聯省自治を宣伝した。1928年(民国17年)8月、国民政府により北平市政府社会局局長に任命された。翌年には青島市政府教育局局長に異動している。その後、『復興月刊』という雑誌を創刊している。

汪兆銘政権での活動 編集

1939年(民国28年)、趙正平は香港に移住したが、まもなく上海に戻り汪兆銘(汪精衛)の活動に参加する。同年7月に汪が開催した幹部会議にも出席した。

1940年(民国29年)3月末に南京国民政府が正式に成立すると、趙正平は初代教育部部長に任命された。その後、中央図書館館長、編訳館館長、中央政治委員会委員、清郷委員会委員、文物保管委員会委員等にも任じられる。8月、教育部部長から上海大学校長に転じている。また、各期で中央政治委員会委員をつとめた。

日本敗北後の1945年(民国34年)8月、趙正平は鎮海(現在の浙江省寧波市鎮海区)に逃亡した。しかし結局、漢奸の罪を恐れて自殺した[2]。享年68。

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  1. ^ 鄭仁佳「趙正平小伝」が指摘する多数説に基づく。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』と『最新支那要人伝』は、1877年(光緒3年)とする。
  2. ^ 鄭同上によると、心臓病再発による死去との説もあるという。

参考文献 編集

  • 鄭仁佳「趙正平小伝」「伝記文学」ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
教育部長
1940年3月 - 1941年8月
次代
李聖五