趙 爾豊(ちょう じほう)は清末の政治家。字は季和奉天省鉄嶺県(現在の遼寧省鉄嶺市)の人で、漢軍正藍旗に属した。清末に四川省チベット等で地方政府長官級の各職を務めた人物である。兄は、清末民初の政治家である趙爾巽

趙爾豊
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プロフィール
出生: 1845年道光25年)
死去: 1911年宣統3年)12月22日
清の旗 四川省成都府
出身地: 清の旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 趙爾豐
簡体字 赵尔丰
拼音 Zhào Ĕrfēng
注音二式 Jàu Ĕr`fēng
和名表記: ちょう じほう
発音転記: ジャオ アーフォン
ラテン字 Chao Er-feng
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事跡編集

1875年光緒元年)、郷試を受けたが及第せず、誊録(浄書係の旧称)に任じられた。その後、山西省で官吏としての経歴を開始したが、1888年(光緒14年)、当時山西省に赴任していた錫良に見出され、以後、錫良の引き立てにより各職を歴任する。特に、1901年(光緒27年)からは、河道総督となった錫良の下で、趙爾豊が河川工事の責任者を務め、実績を積んでいる。

1903年(光緒29年)、四川総督となった錫良に随従して趙爾豊も四川入りし、会党土司の反乱鎮圧に従事した。1906年(光緒32年)、清朝から督弁川滇辺務大臣に任命される。そして1907年(光緒33年)、錫良の後任として、護理四川総督に任じられた。1908年(光緒34年)5月、駐蔵大臣兼領辺務大臣に任じられ、さらに正式に四川総督に就任した。1909年宣統元年)には、軍を率いてチベット入りしたが、この年に駐蔵大臣等を辞任し、川滇辺務大臣に専任となる。

1911年宣統3年)4月、趙爾豊は署四川総督に復帰し、四川省で発生した鉄道保護運動の鎮圧に奔走した。しかし、武昌起義が勃発すると、四川省でも鉄道保護運動が革命派の蜂起と結びついていく。鎮圧どころか、自己の身が危うくなった趙は、四川咨議局議長蒲殿俊に政権を委ねて下野する。

しかし、鉄道保護運動(zh)鎮圧で革命派などから怨みを買い、さらに反動的蜂起を疑われていた趙は、同年12月、蒲殿俊を後継した四川都督尹昌衡により逮捕され、成都で公開処刑された。享年67。

参考文献編集

関連項目編集