選侍趙氏(せんじ ちょうし、? - 1620年)は、明の泰昌帝の側室。
万暦年間、皇太子朱常洛(後の泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。健在な子供はなかった[1]。
万暦48年(1620年)7月、万暦帝の崩御により泰昌帝が即位するが、側室達が妃嬪に封ぜられる間もなく、9月1日に崩じた。代わって天啓帝が即位すると、その乳母の客氏と仲が悪かった趙氏は、直々に自殺を命じられた。趙氏は泰昌帝からの賜物を並べ、西に向いて仏を拝み、痛哭して自ら縊死した。