足利基氏
足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日)[1])。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子[2](登子の子としては次男)。
足利基氏像 | |
時代 | 南北朝時代 |
生誕 |
興国元年/暦応3年3月5日 (1340年4月2日) |
死没 |
正平22年/貞治6年4月26日 (1367年5月25日) |
改名 | 光王・亀若丸(ともに幼名)→基氏 |
別名 | 入間川殿 |
戒名 | 瑞泉寺玉巌道昕 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の瑞泉寺 |
官位 | 従三位左兵衛督 |
幕府 |
室町幕府初代鎌倉公方 (在職:1349年 - 1367年) |
氏族 | 足利氏、鎌倉公方家 (足利将軍家) |
父母 | 父:足利尊氏、母:赤橋登子 |
兄弟 | 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王ほか |
妻 | 正室:清渓尼(畠山家国の娘) |
子 | 氏満、女(六角満高室) |
生涯
編集足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父尊氏は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349年)に次男である基氏を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府として足利氏政権の出張所として機能させた。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
正平7年(1352年)に尊氏は弟の直義を鎌倉に追い詰めて降伏させると、浄妙寺境内の延福寺に幽閉した。そして、2月25日に基氏は鎌倉にて元服するが、その翌日の26日に直義は病死(暗殺とも)している[3]。
『鎌倉九代後記』によれば、基氏は約9年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。父の死後、南朝方の新田義興を滅ぼすと共に、正平16年/康安元年(1361年)には執事として基氏を補佐していた畠山国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至った。後任には一時高師有を用いたが、正平18年/貞治2年(1363年)6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せた。
この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られている。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可を基氏は武蔵苦林野で撃退した上、宇都宮征伐に向かった。途中の小山で小山義政の仲介を元に、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固めた。また、京の禅僧夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、禅や五山文学を普及奨励させるなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。
正平22年/貞治6年(1367年)に死去、享年28。死因ははしかと伝わる[4]。『難太平記』は自殺の可能性をほのめかすが、あくまで伝聞で真相は分からないとしている。同年12月7日には兄義詮も亡くなっている。
その後
編集基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家(数流に分かれる。当該項目参照)の1つは、戦乱と激動の関東を生き残り、江戸時代には喜連川家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名として存続した。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。
東松山市岩殿字油免には、岩殿山合戦の折、基氏が陣を置いたとされる館の跡(『足利基氏館跡』。土塁や堀の跡、北緯36度0分19秒 東経139度22分20.6秒)が残っている[5]。
人物像
編集説話集「 塵塚物語」において基氏は「武勇の誉れ高く慈悲深い人物、正直者で、和歌の嗜みもある」と評されている[6]。
また塵塚物語では、美食家でもあったとされ、基氏と料理人とのエピソードを掲載している。それによると、基氏が取り寄せた鮒を羹にするように料理人に命じたところ、鮒の裏半面が十分焼けておらず生のままであった。これに激怒した基氏は料理人の不忠ゆえの失態であると厳しく糾弾し、料理人に裸のまま縁側で正座するように処罰を下し鷹狩りに出かけた。だが基氏が帰宅すると、料理人はまだ裸のまま縁側に跪いていた。実は執事の配慮で基氏が留守の間は料理人は着衣することを許されていた。しかし、一日中裸で正座していたと思い込んだ基氏は一時の激情であまりに厳しすぎる処分を下してしまったと自分の行いを恥じた[6]。
管弦、ことに笙に強く感心を示し[注釈 1]、これを嗜む人物であったと考えられる[7]。1353年(文和2年)、南朝に対抗する為に入間川に軍を進め陣取っていた際、朝廷の楽家の一家であり、笙の家であった豊原成秋を関東まで招き、笙を彼から教わったと伝わる。『体源鈔』に拠れば、文和元年(1352年)12月12日、豊原成秋に対し「鎌倉公方の左馬頭足利基氏の笙の御師範」として、将軍自筆の御書が下され、豊原成秋は鎌倉に下向している。さらに同じ豊原家で後円融天皇や三代将軍足利義満の笙の師であった、成秋の兄の豊原信秋も招いて、彼から「秘曲を伝授」された[7]。秘曲を伝授してくれた恩賞として、基氏は豊原信秋に対し、武蔵国に所領を与え、褒美としている。
宗教面においては、義堂周信に帰依し、禅宗を深く信仰していた。1362年、基氏は相模国北深沢庄の荘園を義堂の為に寄進している[8]。また同年、基氏は入間川に在陣中でありながら、義堂の為に鎌倉まで一旦帰還し、鎌倉・瑞泉寺の一覧亭にて花見を催している[8]。同年の冬、基氏が鎌倉へ帰還すると、義堂は基氏の為に奉慶の歌を詠んでいる[9]。義堂は自らの日記に、自分と基氏は立場の違いなどを考慮せず、友人のように水魚の交わりをしてきた、と綴っている[10]。
歌道の家であった冷泉家の当主冷泉為秀[注釈 2]宛てに書かれたと推測される[11]基氏の手紙が存在しており、それによると、冷泉家から歌道を教わっていたようである。新千載和歌集に五首、新拾遺和歌集に八首、新後拾遺和歌集に三首、新続古今和歌集に一首の歌がそれぞれ収録されている[11]。
このようにその教養は非常に深く、広い分野にわたって趣味を嗜んだと伝わっているが、義堂周信によれば、田楽だけは「政道の妨げになる」という理由で全く嗜まなかったとされる[11]。
墓所・寺院
編集基氏は臨済宗に深く帰依し関東各地に寺院を建立したが、とりわけ鎌倉市の瑞泉寺が有名である。また関東への赴任以前に若狭に領地があり大飯郡の青郷に前記と同名の瑞泉寺を建立している。現在は名を大成寺と改め、この地方の名刹として続いている。
経歴
編集※日付=旧暦
偏諱を受けた人物
編集
- (補足)
脚注
編集注釈
編集- ^ 足利尊氏が笙を学んでおり、尊氏の師は後述される豊原信秋、成秋兄弟の父であり豊原時秋の子の豊原竜秋であった。当時の高位の支配者階級は笙を学ぶものが多く、さらに源氏の系統には源義光(新羅三郎)と豊原氏との笙の秘曲を巡る逸話もあり、笙とは縁がある。
- ^ 京ではなく、鎌倉にいることが多かったと伝わる。つまり鎌倉府・基氏の庇護があったと推測される。
- ^ また、偏諱を受けたという直接的な表現ではないが、「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則所蔵))の基光の付記にも「基光謁鎌倉基氏、称八家衆」(基光 鎌倉(の)基氏に謁し、八家衆と称す)という、基氏との関係性を窺わせる記載が見られる[16]。
出典
編集- ^ 『足利基氏』 - コトバンク
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 31頁。
- ^ 松山 2023, p. 100.
- ^ 田辺 2002, p. 66.
- ^ 埼玉県編『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料 第5輯 史蹟及天然紀念物之部』埼玉県、1933年、pp.146-148.
- ^ a b 田辺 2002, p. 71.
- ^ a b 田辺 2002, p. 35.
- ^ a b 田辺 2002, p. 57.
- ^ 田辺 2002, p. 58.
- ^ 田辺 2002, p. 59.
- ^ a b c 田辺 2002, p. 61.
- ^ 武家家伝_粟飯原氏、千葉氏流粟飯原氏 - 粟飯原清胤
- ^ 江田郁夫「総論 下野宇都宮氏」『下野宇都宮氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉、2011年、13頁。
- ^ a b c d 江田郁夫『室町幕府東国支配の研究』高志書院、2008年。
- ^ 荒川善夫「総論I 下総結城氏の動向」『下総結城氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年、15頁。
- ^ 『結城市史 第一巻 古代中世史料編』結城市、1977年、665頁。
参考文献
編集- 田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、2002年。ISBN 9784642077897。
- 埼玉県立歴史資料館 編『中世武蔵人物列伝』さきたま出版会、2006年。ISBN 4-87891-129-8。
- 黒田基樹 編『足利基氏とその時代』戎光祥出版〈関東足利氏の歴史 第1巻〉、2013年。ISBN 978-4864030809。
- 松山充宏 編『桃井直常とその一族』戎光祥出版〈中世武士選書 49〉、2023年。ISBN 9784864034876。
関連項目
編集外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、足利基氏に関するカテゴリがあります。