足利春王丸

室町時代中期、足利持氏の子。

足利 春王丸(あしかが しゅんおうまる[2]/はるおうまる[3])は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子[4]

 
足利春王丸
時代 室町時代
生誕 永享2年(1430年)?
死没 嘉吉元年5月16日1441年6月5日
幕府 室町幕府
氏族 足利氏
父母 父:足利持氏、母:簗田河内守(簗田満助?)娘
兄弟 義久春王丸安王丸[1]成氏
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略歴 編集

生母は簗田河内守(簗田満助?)の娘と『古河公方系図』にある。なお、持氏の子息の中では唯一史料に生母が明示されている人物である。義久、安王丸、成氏らと母が同じかは不明。また、長塚孝は簗田氏の娘が生んだのは安王丸の方で『古河公方系図』は誤記をしているとする説を唱えている[5]

 
春王・安王の墓と辞世の句碑(岐阜県不破郡垂井町)

父の持氏が室町幕府将軍足利義教に反抗した末に、永享11年(1439年)に自害に追い込まれると(永享の乱)、弟の安王丸とともに下野国日光山に潜伏する[6]。後に密かに結城氏朝に居城結城城に匿われ、義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する氏朝に擁立され籠城するが、上杉持房を総大将とする幕府軍により落城(結城合戦)。安王丸とともに長尾因幡守に捕らえられ、京都護送中に義教の命令により弟とともに美濃国垂井宿金蓮寺にて殺害される。享年12[7]

なお、結城城籠城の際には成氏もおり、春王丸・安王丸兄弟同様に殺害されようとしていたところ嘉吉の乱で義教が殺害されて命拾いしたとする説がある。確かに『看聞日記』嘉吉元年5月19日条に持氏の息子3名が捕らえられたと書かれているが、少なくとも『喜連川判鑑』及び『古河公方系図』では成氏は信濃国に落ち延びて大井氏に匿われていたとし、下野国に落去していた春王丸らとは別行動であったとしている。このため、3人目の息子は成氏以外の別の息子(百瀬今朝雄尊敒佐藤博信定尊田口寛成潤でかつ『結城合戦別記』に記された日光山に逃れた「公方ノ二男ノ若君」も成潤に比定して、彼は春王丸よりも年長の兄であったとする[8]。)であったと推定されている。

辞世の歌は「夏草や 青野が原に 咲くはなの 身の行衛こそ 聞かまほしけれ」

安王丸は「身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」

脚注 編集

  1. ^ 『関東合戦記』・『北条記』・『足利系図』・『寛政重修諸家譜』などの多くの史料では春王丸が兄だが、『永享記』では安王丸を兄としている。また、渡辺世祐は『関東中心 足利時代之研究』において、当時出された文書が安王丸の署名で出されていることと『結城戦場記』の記述から安王丸を兄とし、多くの史料が「春王丸・安王丸」の順に記すのは語呂が良いためであり、実際の兄弟の順では無いのではないかと述べている。ただし、『東寺執行日記』嘉吉元年4月16日条のように「十一歳安王殿・十二歳春王殿」と年長である春王丸を後ろに記載した記録もあり、何らかの事情で安王丸の方が年下でありながら主将として擁立されていた可能性もある。春王丸の母に関する『古河公方系図』の誤記説を採る長塚孝は安王丸が簗田満助=助良の姪が生んだ子で、母親の出自の高さから主将に立てられたとみている。
  2. ^ 『年代記配合抄』など「俊王丸」「康王丸」という表記で書かれた史料もあり、これを同音の別表記を考えた場合には、春王丸は「しゅんおうまる」が正しい読み方ということになる(長塚孝「総論 足利成氏論」長塚孝 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻 足利成氏』(戒光祥出版、2022年)ISBN 978-4-86403-421-0 P37.)。
  3. ^ 『講談社日本人名大辞典』・『日本古代中世人名辞典』等では「はるおうまる」読み。
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 30頁。
  5. ^ 長塚孝は結城合戦で安王丸の方が主将扱いされていること、簗田一族である簗田景助が安王丸の下で活動していることを指摘し、簗田氏の外孫は安王丸の方で春王丸の母はそれよりも身分が低い女性(奉公衆以下の家格出身の中臈もしくは下臈)であったとする。更に長塚は簗田助良(満助の実名)の姪として『簗田家譜』に登場する「養寿」という女性が万寿王丸(成氏)の生母とする見解から、安王丸の母も「養寿」であったとしている(長塚孝「総論 足利成氏論」長塚孝 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻 足利成氏』(戒光祥出版、2022年)ISBN 978-4-86403-421-0 P9-12.)。
  6. ^ 佐藤博信は春王丸の初出の発給文書が鹿島護国院宛であることから、潜伏先を常陸国鹿島郡または行方郡とする説を唱えている(「永享の乱後における関東足利氏の動向」『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年)。また、田口寛は『結城合戦別記』には日光山に逃れた「公方ノ二男ノ若君」と「春王」は別に記されていることや『看聞日記』嘉吉元年5月4日条には結城城に籠城した持氏の息子のうち一番上の兄は13歳であると記されている(『永享記』などの春王丸の享年12歳が正しければ、春王丸とは別人ということになる)ことから日光山に逃れたのは春王丸の兄とする(「足利持氏の若君と室町軍記-春王・安王の日光山逃避説をめぐって-」(初出:『中世文学』53号(2008年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1))
  7. ^ 『永享記』・『東寺執行日記』嘉吉元年4月16日条・『師郷記』同年5月19日条より。『喜連川判鑑』では享年13とする。
  8. ^ 百瀬説は『神奈川県史通史編 Ⅰ』、佐藤説は「永享の乱後における関東足利氏の動向」、田口説は「足利持氏の若君と室町軍記」による。

参考文献・史料 編集

  • 渡辺世祐『関東中心 足利時代之研究』(1971年、新人物往来社)
  • 『喜連川判鑑』(写本続群書類従所収、原本は二階堂氏本)
  • 『古河公方系図』(続群書類従所収)
  • 『関東合戦記』(続群書類従所収)
  • 『北条記』(続群書類従所収)
  • 『寛政重修諸家譜』2巻

外部リンク 編集