足利義純
鎌倉時代初期の足利一族の武将。義兼の庶長子。源姓畠山氏・岩松氏・田中氏の祖。
足利 義純 / 畠山 義純(あしかが よしずみ / はたけやま よしずみ)は、鎌倉時代初期の足利一族の武将。源姓畠山氏・岩松氏の祖。
時代 | 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 安元2年(1176年) |
死没 | 承元4年10月7日(1210年10月26日) |
別名 | 足利太郎(通称)、畠山義純 |
官位 | 従五位下、遠江守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 → 頼家 → 実朝 |
氏族 | 足利氏 → 畠山氏 |
父母 | 父:足利義兼 |
兄弟 | 義純、桃井義助、義氏、桃井義胤 |
妻 |
正室:来王姫(新田義兼の娘) 継室:北条時政の娘[注 1] |
子 | 岩松時兼、田中時朝、泰国 |
生涯編集
足利義兼の庶長子であるが、遊女の子であったとも伝えられ、大伯父の新田義重に新田荘で養育されたという。畠山重忠が元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱で北条氏の手により滅ぼされると、義純は重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、重忠の旧領と畠山の名跡を継承した。異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したとも考えられている。義純は元々従兄弟の新田義兼の娘来王姫と結婚しており、子時兼・時朝らを儲けていたが 、妻子と義絶しての継承であった。
ただし、義純の生涯については不明な点も多く、来王姫も畠山重忠の乱以前に既に死去していた可能性もある。また、新田氏からも畠山氏(正確には重忠の未亡人。また、異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘)からも義純に所領が継承された形跡はなく、岩松時兼・田中時朝・畠山泰国のいずれもが母方から直接所領を継承して各々の家の祖となったもので、義純を岩松氏や源姓畠山氏の祖とするのは正しくないとする指摘もある[2]。さらに岩松氏の所領の中に畠山重忠の旧領由来と思われる武蔵国大里郡の所領が含まれているとの指摘がある[3]。
ともあれ、これにより秩父平氏の流れを汲む畠山氏は、河内源氏の一系・足利一門として存続することになった。5年後の承元4年(1210年)10月7日、35歳で病没。
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 竹村紘一「足利一族の基礎知識」『歴史研究』第576号、2009年、23頁。
- ^ 渡政和「鎌倉時代の畠山氏について」『埼玉県立歴史資料館研究紀要』第12・13号、1990・1991年。/所収:所収:清水亮 編『畠山重忠』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻〉、2012年。ISBN 978-4-86403-066-3。
- ^ 彦由三枝子「足利氏と畠山氏」『武蔵野』第81巻第2号、武蔵野文化協会、2005年。/所収:清水亮 編『畠山重忠』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻〉、2012年。