足利高義

鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。足利貞氏の長男。左馬助。子に足利安芸守(-1336、長男)

足利 高義(あしかが たかよし)は、鎌倉時代末期の武将鎌倉幕府御家人足利貞氏の長男。母は正室で北条顕時の娘・釈迦堂殿[注釈 1]足利尊氏足利直義の異母兄に当たる。

 
足利高義
時代 鎌倉時代末期
生誕 永仁5年(1297年
死没 文保元年6月24日1317年8月2日[1]
別名 延福寺殿(円福寺殿)
官位 左馬助
幕府 鎌倉幕府
主君 将軍守邦親王
得宗北条高時
氏族 河内源氏義国足利氏
父母 父:足利貞氏、母:釈迦堂殿(北条顕時娘)[注釈 1]
兄弟 高義高氏(尊氏)高国(直義)
安芸守某、田摩御坊源淋[注釈 2]、娘(上杉朝定室)、娘(武田信武室)
テンプレートを表示

略歴 編集

元服に際して、北条氏得宗家当主の北条高時(鎌倉幕府第14代執権)より偏諱を受けて[3][4][5][6]高義と名乗る。

鎌倉時代の足利氏嫡流家の歴代当主のはこれまで「得宗の当主の偏諱+通字の「氏」」で構成されてきた[3]のに、高義の名には「氏」が付かずに清和源氏通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、足利氏の鎌倉将軍および得宗家への忠節と引換に、足利氏が「源氏嫡流」として認められたとする見方もある(→「門葉」)[3]

左馬頭に任じ、延福寺殿(円福寺殿)と号したことが系図に見えるが[1]、早世したために詳細な足跡は不明である。正和4年(1315年)11月に「足利左馬助」名で鶴岡八幡宮の僧侶・円重に対して供僧職安堵の書状を出しており(「鶴岡両界壇供僧次第」)[注釈 3]、足利家の家督を継承していたらしい。しかし、3年後の文保2年(1318年)9月には、家督を譲ったはずの父・貞氏が再び安堵状を出しており、この時までに高義は没したと考えられている。足利氏歴代当主の死没日がほぼ正確に記載されている『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」には高義の死没日も記載されており[8][1]、それに基づけば文保元年(1317年)に没したことになる。また、『前田本源氏系図』の高義の注記には「左馬助、従五位下、早世廿一、」と没年齢を21歳としており、これを採用した場合は永仁5年(1297年)生まれとなる[9]

備考 編集

関連作品 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 続群書類従』所収「足利系図」の注記には「按貞氏妻、金沢越後守顕時女也云々、」とありこれが定説となっている。但し、『前田本源氏系図』の注記には「母上杉経高女」とある[2]
  2. ^ 貞氏の子とする説もある。
  3. ^ 当時、鶴岡八幡宮の上宮東回廊には足利義兼が両界曼荼羅と一切経を納めた「両界壇」と呼ばれる区画があり、足利氏宗家では八幡宮の僧侶に依頼して供養を行っていた。その供養を行う供僧の職の補任と安堵は宗家当主が行っていた[7]
  4. ^ 政氏基氏朝氏には「氏」の字が与えられている[10]のに対して、義貞には「氏」ではなく「義」字が用いられているという理由による見解である[12]。水野智之もこの説について「北条氏の勢力が展開している中、清和源氏の通字「義」字が用いられた理由として合理的である。」との見解を示している[6]。義貞の元服年月日については明確に分かっていないが、唯一、「筑後佐田・新田氏系図」には正和3年(1314年3月1日という高義活動期に近いものを載せている[13]

出典 編集

  1. ^ a b c 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)の高義の記事中の“高義 嫡子、号円福寺殿、文保元年六月廿四日卒”による。田中 2013, p. 386, 「下野足利氏関係史料」にも掲載あり。
  2. ^ 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。 /所収田中 2013, p. 190
  3. ^ a b c 田中 2013, p. 25, 「中世前期下野足利氏論」
  4. ^ 臼井信義「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」『日本歴史』257号、1969年。 /所収:田中 2013, p. 69
  5. ^ 吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」『中世政治史残篇』トーキ、2000年。 /所収:田中 2013, p. 172
  6. ^ a b 水野 2014, p. 59.
  7. ^ 吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」『中世政治史残篇』トーキ、2000年。 /所収:田中 2013, p. 171
  8. ^ 田中 2013, p. 2.
  9. ^ 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。 /所収:田中 2013, p. 191。また、田中 2013, 巻末、「下野足利氏関連年表」でもこの説を採用している。
  10. ^ a b 田中 2013, p. 19, 「中世前期下野足利氏論」
  11. ^ 湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館〈動乱の東国史3〉、2012年、234頁。 
  12. ^ 田中 2013, p. 43, 「中世前期下野足利氏論」脚注(51).
  13. ^ 千々和実 編『新田氏根本史料』国書刊行会、1974年。 

参考文献 編集

  • 櫻井彦; 樋口州男; 錦昭江 編『足利尊氏のすべて』新人物往来社、2008年。ISBN 978-4-404-03532-5 
  • 田中大喜 編『下野足利氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年。ISBN 978-4-86403-070-0 
  • 水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』吉川弘文館歴史文化ライブラリー388〉、2014年。