近江国

近国に属する令制国の一つ
近江権少掾から転送)

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。

近江国

-近江国
-東山道
別称 江州(ごうしゅう)
所属 東山道
相当領域 滋賀県
諸元
国力 大国
距離 近国
12郡93郷
国内主要施設
近江国府 滋賀県大津市近江国庁跡
近江国分寺 1.(推定)滋賀県甲賀市紫香楽宮跡
2.(推定)滋賀県大津市野郷原
3.(推定)滋賀県大津市光が丘町
近江国分尼寺 (未詳)
一宮 建部大社(滋賀県大津市)
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「近江」の名称と由来 編集

近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される[1]。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない[2]。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。

沿革 編集

近世以降の沿革 編集

国内の施設 編集

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近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。

古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。

国府 編集

栗太郡勢多に所在。1964年昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。

国分寺・国分尼寺 編集

国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。

神社 編集

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社13座10社・小社142座132社の計155座142社が記されている(近江国の式内社一覧を参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下

地域 編集

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江戸時代の藩 編集

近江国の藩の一覧
藩名 居城 藩主
彦根藩 佐和山城
(1600年~1606年)
彦根城
(1606年~1871年)
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石)
膳所藩 膳所城

戸田家(1601年~1616年、3万石)
本多家(1616年~1621年、3万石)
菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)
石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)
本多家(1651年~1871年、7万石)

水口藩 水口城

加藤家(1682年~1695年、2万石)
鳥居家(1695年~1712年、2万石)
加藤家(1712年~1871年、2万5千石)

大溝藩 大溝陣屋

分部家(1619年~1871年、2万石)

仁正寺藩 仁正寺陣屋

市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石)

山上藩 山上陣屋

稲垣家(1698年~1871年、1万3千石)

近江宮川藩 宮川陣屋

堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石)

三上藩 三上陣屋

遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石)

堅田藩 堅田陣屋

堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)
下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩

朽木藩 朽木陣屋

朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)
朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩

大森藩 大森陣屋

最上義俊(1622年~1632年、1万石)
嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩

近江高島藩

佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)
信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった

近江小室藩 小室陣屋

小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)
不正のため改易・廃藩

人物 編集

国司 編集

近江守 編集

続日本紀

日本後紀

続日本後紀

日本文徳天皇実録

日本三代実録

その後の平安時代

南北朝時代

近江介 編集

近江掾 編集

守護 編集

鎌倉幕府 編集

室町幕府 編集

戦国大名 編集

武家官位としての近江守 編集

江戸時代以前 編集

江戸時代 編集

近江国の合戦 編集

その他 編集

2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある[4]

関連氏族 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 狭山藩は明治2年12月26日(1870年1月27日)に廃藩。
  2. ^ 丸亀藩は明治4年4月10日(1871年5月28日)に廃藩。
  3. ^ 大溝藩は明治4年6月3日(1871年4月16日)に廃藩。
  4. ^ 『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。
  5. ^ 六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、観応の擾乱足利尊氏と敵対する足利直義方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。
  6. ^ 佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の満高が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。

出典 編集

  1. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。
  2. ^ 櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。
  3. ^ a b 「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。
  4. ^ 近江の人 木沢まさと: ブランド構築に向けて、木沢成人、2009年12月11日更新、2011年3月8日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集