近藤 坦平(こんどう たんぺい、天保15年3月3日1844年4月20日) - 昭和4年(1929年1月27日)は、三河碧海郡鷲塚村出身の医師。蜜蜂義塾の創立者。

近藤 坦平
生誕 天保15年3月3日1844年4月20日[1]
三河碧海郡鷲塚村
死没 昭和4年(1929年1月27日
国籍 日本の旗 日本
職業 医師
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経歴 編集

父親の近藤安中(こんどう あんちゅう、文化7年(1810年)9月5日 - 明治25年(1892年)2月17日)も医師であり、外科で有名な華岡青洲の門人だった[2][3]。天保15年(1844年)3月3日、三河碧海郡鷲塚村(後の旭村、現在の愛知県碧南市)に近藤坦平が生まれた[3]

文久3年(1863年)に江戸に出ると、蘭方医戸塚静海に師事して、西洋医術を半年間学んだ[3]。同年春には御典医松本良順に師事し、松本の下で2年間学んだ[3]。元治元年(1864年)には長崎精得館に向かい、オランダ人医師のアントニウス・ボードウィンに師事して、医学全科と実地演習を3年間行った[3]。1870年(明治3年)には菊間藩で藩学校掛兼洋学教員を拝命した[3]

慶應4年(1868年)に帰郷し、旧知の仲である岡崎の蘭方医宇都野龍碩の長女多田と結婚した。1872年(明治5年)には病院として洋々堂(後に洋々医館、協療社)を設立し、解剖の研究と施療を行った[3]。また、医学校として蜜蜂義塾を開校し、普通学、洋学、西洋医学の全科の教授となった[3]。蜜蜂義塾は当時の東海地方で唯一の西洋式医学塾だとされ、愛知医学校(現在の名古屋大学医学部)が軌道に乗るまでの10年間は稀有な存在だった[4]。蜜蜂義塾を卒業して各地で開業した医師は200人を超えている[3]

1873年(明治6年)には愛知県立病院の創立係となった[3]。医師として地域医療に携わる傍らで、愛知県会議員、愛知県学務委員、愛知県医師会役員、鷲塚村立鷲塚小学校学務医院を務めた[3]。1929年(昭和4年)1月に死去した[3]。3月には旭村立鷲塚小学校において旭村の村葬が行われている[3]

家族 編集

実弟に医師の近藤良薫。横浜で開業し、横浜医師会の中心人物となった。

 
近藤次繁

婿養子の近藤次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日 - 1944年3月4日)も医師・医学博士である。鶴見次繁(出生名)は東京帝国大学医科大学を卒業し、坦平の娘おきてと結婚して婿養子となった[4]。養父の坦平の後援でドイツオーストリアに留学しており、洋々堂で坦平の後継者となる予定だったが、東京帝国大学医学部に引き抜かれた[4]。次繁は野口英世の左手の再手術や、日本初の胃がんの外科手術を執刀している[4]。次繁の息子には作家の近藤経一、裁判官の近藤綸二、消化器内科医の近藤台五郎がいる。

三男の近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年5月13日 - 1965年10月17日)も医師・医学博士である。乾郎は大阪高等医学校を卒業し、京都大学医化学教室などで研究活動を行った後、1908年から1911年までドイツとオーストリアに留学した。1912年には坦平の跡を継いで洋々医館の病院長となったが、1914年には東京・四谷に近藤医院を開業した。乾郎は全日本看護婦連盟主事などを務めた。

脚注 編集

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plusでは3月12日生まれ。
  2. ^ 『鷲塚小学校の百年』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『碧南市史料 第58号 旭村誌』
  4. ^ a b c d 医療ツーリズムと「洋々医館」 地域医療充実の先駆者たち 日本福祉大学

参考文献 編集

  • 『碧南市史料 第58号 旭村誌』碧南市史編纂会、出版年不明、pp.108-109.
  • 鷲塚小学校開校百年誌部会『鷲塚小学校の百年』1973年、p.12

外部リンク 編集