進藤達哉
進藤 達哉(しんどう たつや、1970年1月14日 - )は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。2014年から2016年まで横浜DeNAベイスターズ一軍打撃コーチ兼作戦担当、一軍ヘッドコーチを歴任した。
横浜DeNAベイスターズ 編成部長 | |
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2014年7月13日 明治神宮野球場にて | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 富山県高岡市 |
生年月日 | 1970年1月14日(49歳) |
身長 体重 |
174 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、三塁手、二塁手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト外 |
初出場 | 1988年10月20日 |
最終出場 | 2003年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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目次
来歴編集
プロ入り前編集
高岡商業高時代はクリーンナップを務め、チームメイトには尾山敦、干場崇永がいた。第69回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦の対長崎商業戦は先制適時打[1]も放っている。3回戦は後にチームメイトとなる野村弘のいたPL学園と対戦したが敗退。非凡な守備を評価され、1987年にドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。
大洋・横浜時代編集
1988年に新人ながら初の一軍昇格(同学年で、大洋に同期入団した盛田幸妃と野村弘も、高卒新人で一軍昇格を果たした)。1989年からは控えとして一軍に定着し、1992年には高橋雅裕から遊撃手の定位置を奪ってレギュラーに定着し、二桁本塁打を記録。翌1993年には初の規定打席に到達した。翌1994年は多くを1番打者として出場。中盤に右肩を故障し、新人の波留敏夫にポジションを奪われるもシーズン終盤に復帰。翌1995年は主に下位打線で出場して、自身二度目の規定打席到達。
1996年、新監督の大矢明彦の内野コンバート案によって、3年連続で三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞していた石井琢朗が遊撃手に、ロバート・ローズ二塁手が三塁手に、そして進藤が二塁手にコンバートされたが、二塁手となったことで送球が逆スローになった影響から背筋を痛め、ローズも三塁で失策を多発したため、ローズを二塁に戻し進藤が三塁に収まった。しかしその後も怪我が続き、規定打席には届かなかった。
1997年から1999年まで3連続で三塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得。1997年は開幕から好調で、打率上位にランキングされていたが、頭部に死球を受けた後は失速する。1998年7月8日の阪神戦、前日の7日にシーズン無失点記録と連続セーブ記録が途切れたクローザーの佐々木主浩が前日に続き1アウト2塁のピンチを招き、矢野に三遊間にヒット性の打球を打たれる。チームの絶対的な勝ちパターンが揺らいだ、シーズンのターニング・ポイントともなった場面であったが、三塁手・進藤がゴロを横っ飛びの好捕をして即座に一塁送球。アウトにしてチームの危機を救った[2](7月2日の広島戦で左腕に死球を受けスタメンから外れており、このプレーで左腕を強打して痛みでしばらく立ち上がれなかったが、本人は後日「目を瞑って飛び込んだら入ったという感じ」と平然と言い放った)。石井、ローズ、駒田徳広らとともに、当時12球団でも随一の守備力と呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守でチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打撃でもいずれも生涯自己最高となる打率.241、14本塁打、54打点を記録し、リーグ優勝決定試合でも勝利打点を叩き出すなど、マシンガン打線の一員として活躍した。
1999年はアルキメデス・ポゾの加入によってスタメンを外れることが多くなり規定打席未達に終わるも、打率.286を記録。当時のチーム打率の日本記録をたたき出した打線の7番打者として活躍した。オフにはFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズが獲得に乗り出したが、二塁手としての出場を強く希望していた進藤に対し、オリックスはゴールデングラブを獲得した三塁手としての起用を予定していたために交渉は破談。西武、ロッテも既に編成が終了していたこともあり一転して横浜に残留した。これに伴い、当時横浜へのFA移籍が最有力視されていた江藤智は、三塁手のポジションが重なってしまうことから、読売ジャイアンツへと移籍することになった[3]。2000年は右足首の故障に加えて欠場中の代役に入った金城龍彦が首位打者および新人王に輝く活躍をみせてポジションを奪われてしまい、わずか59試合の出場で打率.224、2本塁打にとどまる。ちなみに同年の本拠地最終戦(チームのシーズン最終戦でもあった)では、ロバート・ローズが既に帰国していたこともあってもともと自身が希望していた二塁手でスタメン出場するという皮肉もあった。
オリックス時代編集
2001年に戸叶尚・新井潔と共に、小川博文・杉本友・前田和之との3対3の交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。監督の仰木彬の期待の表れとして福本豊以降事実上の永久欠番であった背番号7番を福本承諾の上でつけた。2003年限りで現役引退。
引退後編集
2004年から監督の山下大輔に招聘され、古巣・横浜の内野守備コーチに就任。2007年限りで退任し、2008年より横浜のスカウトに転出。
2010年、出身地である富山県の富山サンダーバーズのコーチに就任。2012年、監督に昇格した[4]。
2013年オフ、富山の監督を退任し、2014年に横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチ兼作戦担当に就任した[5]。2015年から一軍ヘッドコーチを務め、2016年は球団11年ぶりの3位に貢献した。 2017年より横浜DeNAベイスターズGM補佐兼編成部長に転出。
人物編集
- 1993年の横浜ベイスターズ発足は開幕5連敗スタートだったが、進藤の逆転サヨナラ満塁ホームランで初白星を挙げている。また、1998年10月8日の阪神戦では38年ぶりの優勝を決めるライト前逆転タイムリーを打ち、めずらしく二塁ベース上でガッツポーズした。2000年開幕戦でもサヨナラ打を放っており、要所での勝負強さが目立った。
- 1998年のVパレードでは球団が主力選手はパレードバスに、控え選手は通常バス(外から中は見えない)に分乗を予定していたが、進藤が「全員で勝ち取った優勝だから」と発言し、選手全員がパレードバスに乗りパレードした。
- 1999年にFA宣言した際はセカンドでの起用を希望していたが、オリックスの仰木監督はサードでの起用を打診。これに「サードをやるなら横浜でいい。横浜が嫌で出ていくのではない」と残留。オリックスとは電話交渉のみでテーブルにつくことはなかった。
詳細情報編集
年度別打撃成績編集
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1988 | 大洋 横浜 |
1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1989 | 56 | 91 | 83 | 8 | 20 | 4 | 2 | 2 | 34 | 9 | 0 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 24 | 0 | .241 | .276 | .410 | .686 | |
1990 | 40 | 136 | 119 | 18 | 31 | 5 | 0 | 2 | 42 | 9 | 3 | 1 | 8 | 0 | 9 | 0 | 0 | 19 | 0 | .261 | .313 | .353 | .665 | |
1991 | 23 | 47 | 40 | 5 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 5 | 1 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 1 | 14 | 0 | .175 | .250 | .300 | .550 | |
1992 | 108 | 388 | 353 | 45 | 87 | 18 | 1 | 11 | 140 | 30 | 7 | 0 | 6 | 0 | 25 | 2 | 4 | 75 | 7 | .246 | .304 | .397 | .700 | |
1993 | 127 | 472 | 414 | 53 | 94 | 22 | 4 | 12 | 160 | 45 | 3 | 6 | 4 | 1 | 46 | 2 | 7 | 70 | 6 | .227 | .314 | .386 | .701 | |
1994 | 80 | 327 | 283 | 34 | 67 | 14 | 2 | 4 | 97 | 23 | 3 | 5 | 6 | 2 | 34 | 1 | 2 | 40 | 6 | .237 | .321 | .343 | .664 | |
1995 | 126 | 456 | 368 | 47 | 80 | 10 | 4 | 11 | 131 | 31 | 5 | 2 | 20 | 2 | 62 | 2 | 4 | 55 | 12 | .217 | .335 | .356 | .691 | |
1996 | 67 | 238 | 195 | 21 | 51 | 8 | 1 | 2 | 67 | 24 | 4 | 2 | 12 | 0 | 30 | 2 | 1 | 34 | 5 | .262 | .363 | .344 | .706 | |
1997 | 117 | 423 | 352 | 37 | 83 | 19 | 1 | 10 | 134 | 43 | 9 | 5 | 12 | 5 | 53 | 3 | 1 | 61 | 7 | .236 | .333 | .381 | .714 | |
1998 | 124 | 456 | 390 | 50 | 94 | 19 | 1 | 14 | 157 | 54 | 0 | 0 | 8 | 3 | 52 | 5 | 2 | 75 | 14 | .241 | .331 | .403 | .734 | |
1999 | 109 | 370 | 332 | 38 | 95 | 13 | 1 | 14 | 152 | 43 | 1 | 1 | 4 | 4 | 30 | 3 | 0 | 60 | 5 | .286 | .342 | .458 | .799 | |
2000 | 59 | 147 | 134 | 14 | 30 | 7 | 0 | 2 | 43 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 26 | 2 | .224 | .293 | .321 | .613 | |
2001 | オリックス | 115 | 342 | 302 | 40 | 73 | 17 | 0 | 9 | 117 | 40 | 0 | 2 | 3 | 1 | 35 | 1 | 1 | 65 | 4 | .242 | .322 | .387 | .709 |
2002 | 121 | 392 | 356 | 35 | 80 | 14 | 0 | 5 | 109 | 29 | 4 | 1 | 10 | 1 | 19 | 1 | 6 | 94 | 6 | .225 | .275 | .306 | .581 | |
2003 | 75 | 134 | 122 | 14 | 25 | 5 | 0 | 5 | 45 | 12 | 2 | 1 | 1 | 0 | 10 | 0 | 1 | 34 | 3 | .205 | .271 | .369 | .640 | |
通算:16年 | 1348 | 4419 | 3843 | 459 | 917 | 177 | 17 | 104 | 1440 | 412 | 42 | 26 | 100 | 19 | 425 | 23 | 30 | 746 | 77 | .239 | .318 | .375 | .693 |
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
表彰編集
- ゴールデングラブ賞:3回 (1997年 - 1999年)
記録編集
- 初記録
- 初出場:1988年10月20日、対ヤクルトスワローズ24回戦(横浜スタジアム)、9回表に二塁手として出場
- 初安打:1989年5月12日、対中日ドラゴンズ5回戦(横浜スタジアム)、8回裏に山本昌から二塁打
- 初打点:1989年6月4日、対広島東洋カープ9回戦(秋田市営八橋球場)、8回表に田辺学の代打として出場、清川栄治から適時打
- 初先発出場:1989年6月7日、対読売ジャイアンツ9回戦(横浜スタジアム)、8番・遊撃手として先発出場
- 初本塁打:1989年9月6日、対読売ジャイアンツ20回戦(横浜スタジアム)、5回裏に桑田真澄から
- 節目の記録
- 1000試合出場:2000年5月5日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤドーム)、7番・三塁手として先発出場 ※史上356人目
- 100本塁打:2003年4月29日、対大阪近鉄バファローズ5回戦(Yahoo! BBスタジアム)、7回裏に山本省吾から右越2ラン ※史上227人目
背番号編集
- 36 (1988年 - 1992年、2010年 - 2013年)
- 1 (1993年 - 2000年)
- 7 (2001年 - 2003年)[7]
- 82 (2004年 - 2007年)
- 78 (2014年 - 2016年)
脚注編集
- ^ 長打性の当たりだったが外野の好守で二塁憤死となり、記録は単打。
- ^ 【7月7日】1998年(平10) 大魔神・佐々木主浩 父の命日に675日ぶりの敗戦投手
- ^ 【11月24日】1999年(平11) 進藤達哉、カレンダーから消えた…FA江藤智“話が違う”
- ^ 進藤監督就任のお知らせ - 2011年10月19日
- ^ 進藤監督退任 横浜DeNAベイスターズコーチ就任のお知らせ - 2013年10月18日
- ^ DeNA、吉田孝司氏は代表補佐兼スカウト部長に 進藤達哉氏は編成部長専任
- ^ 進藤と同い年の田口壮はオリックスに1991年ドラフト1位で入団時に、同年限りで二軍監督を退任した福本がつけた7を打診されたが辞退。オリックス球団は1995年オフには田口と同期入団のイチローにも同番号を打診したがイチローも辞退。谷佳知は1996年ドラフトでオリックスに指名され入団する際に同番号を希望したが球団が却下。進藤がつけるまで9年間空き番だった。
関連項目編集
外部リンク編集
- 個人年度別成績 進藤達哉 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)