遅塚麗水
遅塚 麗水(ちづか れいすい、1867年2月1日(慶応2年12月27日)-1942年(昭和17年)8月23日[1])は明治から昭和期にかけての作家、新聞記者。本名は金太郎[2]。別号に紫仙波、踏波山、俳号には松白を用いた[3]。紀行文の大家として知られている。
遅塚 麗水 ちづか れいすい | |
---|---|
![]() | |
誕生 |
遅塚 金太郎 1867年2月1日 駿河国駿東郡沼津 |
死没 | 1942年8月23日(75歳没) |
職業 | 小説家、紀行文家、新聞記者 |
国籍 |
![]() |
ジャンル | 小説、紀行文、新聞記事 |
代表作 | 『不二の高根』(1893年)、『陣中日記』(1894年) |
![]() |
略歴
編集1867年2月1日(慶応2年12月27日)に父・保と母・しをの長男として生まれる。生まれは駿河国駿東郡沼津であったが、一家は1874年(明治7年)に上京した[2]。その後は転居を繰り返した為、遅塚は複数の小学校で学ぶこととなった[2]。後には幼なじみであった幸田露伴からの薦めで、伴に菊地松軒の迎曦塾で漢学を学んでいる[2]。父の死去後は、独学によって小学校教員試験に合格し、教員生活を経たのち、逓信省の雇員となったが1889年(明治22年)7月に退職した[2]。
翌1890年(明治23年)に露伴との合作となる『冷于氷』を読売新聞に発表、同年に郵便報知新聞社に入社し、郵便報知新聞をはじめ「新著百種」や「国民之友」などに小説の執筆を続け[2]、『青年文学』の編集に携わっていく。やがては村井弦斎、原抱一庵、村上浪六との四人で「報知の四天王」と称されるようになる[4]。1893年(明治26年)1月に「国民之友」に発表した小説『不二の高根』が好評を博し、山岳文学の先駆けとして高い評価を得ている[2]。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると郵便報知新聞社から推薦を受けて、前川羊角と供に同社の従軍記者として朝鮮へ渡った[5]。遅塚は同年12月に日清戦争従軍の記録『陣中日記』(春陽堂)を上梓した[2]。朝鮮の文化風俗を丹念に記したこの『陣中日記』も遅塚の代表作の一つである[2][5]。同月の帰国後は都新聞に席を移す[2]。遅塚は小説の執筆も続けたが、各地へ歴訪して『日本名勝記』を筆頭として『ふところ硯』(明治39年6月出版 左久良書房)、『露布衣』(明治41年1月出版 文禄堂)、『山水往来』(明治43年7月出版 良明堂)などの紀行文集を刊行し、独自の地位を確立した[2][3]。
その後は国外へも足を伸ばすようになり、『山東遍路』(大正4年5月出版 春陽堂)、『新入蜀記』(大正15年12月出版 大阪屋号書店)、『南洋に遊びて』(昭和3年3月出版 大阪屋号書店)、『満鮮趣味の旅』(昭和5年3月出版 大阪屋号書店)などの紀行文を著している[2]。1938年(昭和13年)に都新聞編集顧問を辞職してからは、大宮の自宅で漢詩、和歌などを詠んで余生を送った[2]。1942年8月23日に脳溢血で亡くなる。享年77[1][6][7]。
主な著作
編集- 紀行文
- 小説
- 文学全集
- 『明治文学全集』根岸派文学集 筑摩書房、1981年。全国書誌番号:81026678、NCID BN00235644。
脚注
編集- ^ a b 上田正昭 (2001). “遅塚麗水”. 日本人名大辞典. 講談社. ISBN 978-4062108492.
- ^ a b c d e f g h i j k l m “遅塚麗水『角田勤一郎宛書簡』”. 明治・大正の文学者たちの書簡と草稿. 関西学院大学. 2025年6月6日閲覧。
- ^ a b “遅塚 麗水 チヅカ レイスイ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004)
- ^ 長山靖生『日本SF精神史 完全版』(河出書房新社)P.102
- ^ a b 中根(1999年)32頁
- ^ “遅塚麗水”. 国史大辞典. 吉川弘文館.
- ^ “遅塚麗水氏が死去”. 朝日新聞. (1942年8月23日)
参考文献
編集- 中根隆行「従軍文士の渡韓見聞録 : 日清・日露戦争期の<朝鮮>表象と与謝野鉄幹「観戦詩人」」(PDF)『日本語と日本文学』第29号、筑波大学日本語日本文学会、1999年8月25日、29-42頁、CRID 1390009224652124544、doi:10.15068/00161831、hdl:2241/00161831、ISSN 02856352、2025年6月7日閲覧。
関連項目
編集ウィキメディア・コモンズには、遅塚麗水に関するカテゴリがあります。
- 照姫 (豊島氏) - 都新聞で連載した小説『照日の松』の登場人物が伝承化した