遊佐 長教(ゆさ ながのり)は、戦国時代武将尾州畠山氏の家臣。河内国守護代

 
遊佐 長教
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文20年5月5日1551年6月8日
官位 河内守
幕府 室町幕府 河内守護代
主君 畠山稙長長経弥九郎、稙長、政国
氏族 遊佐氏
父母 遊佐順盛[1]
兄弟 長教、某(根来寺杉之坊所属)
日野内光[2]
信教三好長慶継室(遊佐氏
テンプレートを表示

出自 編集

遊佐氏出羽国飽海郡遊佐郷の発祥とみられ、藤原秀郷の末流とされる[3]鎌倉時代より畠山氏に仕えたと考えられ、南北朝時代には畠山国清執事伊豆越前の守護代を務めた遊佐国重がいる[4]

永徳2年(1382年)に畠山基国が河内守護に就任すると、遊佐国長(長護)が河内守護代となり、それ以来遊佐氏は代々河内守護代を務めてきた[5]畠山義就政長の対立が起きると遊佐氏も二派に分かれる[4]。長教はその内の政長流畠山氏(尾州家)に仕えた家の出である[6]。別流には義就流畠山氏(総州家)に仕えた家の他、能登畠山氏に仕えた遊佐氏や、陸奥二本松畠山氏に仕えた遊佐氏がいる[3]

生涯 編集

畠山尚順に仕えた河内守護代・遊佐順盛の子として生まれる[7]

生年については不明だが、天文5年(1536年)に初めて本願寺に音信し、天文7年(1538年)には河内にある本願寺寺院の還住について、重臣と相談した後に返事をすると本願寺に伝えている[8]。このことから当時の長教は未熟とされる年齢と考えられ、小谷利明大永7年(1527年)まで活動の見える遊佐順盛[注釈 1]の晩年の子で、大永2年(1522年)生まれの三好長慶とほぼ同世代であるとしている[8]

長教が補佐したと思われる、尚順の子・稙長享禄・天文の乱に際して石山本願寺や細川晴国が主導していた細川高国の残党と結託して細川晴元と対立する反体制派であった。優勢な晴元方と妥協を図る長教にとって障害となったため、天文3年(1534年)に紀伊へ追放させた稙長の弟長経を一旦は擁立した。翌天文4年(1535年)に、その長経も追放(あるいは殺害)し、もう一人の弟晴熙を家督に擁立。やがて天文7年(1538年)に晴元や総州家の木沢長政と協議し、尾州家畠山弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として並立させ、長教と長政の2人が河内の半国守護代として実権を握った。

しかし、3年後の天文10年(1541年)に晴元に反乱を起こした長政と断絶、並立守護体制の象徴である弥九郎と在氏を追放、稙長と急遽和解して再び守護として迎え入れた。そうして孤立させた長政を、翌天文11年(1542年)に晴元の家臣三好長慶らと連合して河内高安郡太平寺で撃破し(太平寺の戦い)、長政を討ち取った。稙長復帰により河内守護家の権力は回復し、長教は稙長の意を奉じて文書を発給する立場に戻っている。また、稙長の下で河内守に任官され、日野内光と畠山尚順女との間に生まれた娘と婚姻している[2]

しかし紀州没落時から細川氏綱を支援して依然高国系の復権、晴元派打倒を図っていた稙長は、天文12年(1543年)に氏綱が挙兵した際も密かに支援していた。だが天文14年(1545年)に稙長が急死。この時、稙長の後継者が分家の能登守護・畠山義総の子[注釈 2]に定められることになったが、直後の義総の死や稙長の舎弟の反対などで混乱が起こり流れることになる[12]。結局、後継者は弟の政国に定められる。その後天文15年(1546年)になると反晴元方として挙兵して氏綱と共に晴元の領国摂津国を転戦した。この年の12月20日、長教は政国の名代として将軍足利義輝(当時は義藤)の将軍宣下の儀式に参列[13]。これについては、細川氏綱の意向を受けて義晴父子との関係構築を図ったとの見方がある[13]。翌天文16年(1547年)に三好長慶の反撃で摂津を奪い返され、舎利寺の戦いで長慶に敗れ河内高屋城を長期間包囲されたが、天文17年(1548年)に和睦して娘(遊佐氏)を長慶に嫁がせ勢力を保った。

やがて晴元や同族の三好政長と対立が際立った長慶からの要請で同盟を結ぶ長教に対し、主君の畠山政国は反発し、義晴・晴元を支持して紀州に遁世した[14]。『続応仁後記』によれば、長慶の父元長が無念の横死を遂げた一向一揆の蜂起に、政長が強く関与し策動したことを長教から伝えられた為に、長慶は政長討伐を決意したとされる[15]今谷明は「長教は謀略を好む人」と評価・断定した上で、「彼ならばいかにもやりそうなこと」「そのことを長慶に伝えた場合、そこから生じるであろう混乱に便乗して立身出世を図ったのではないか」と指摘している(ただし、後世に制作された軍記に依拠した論ではある)[16]

天文18年(1549年)の江口の戦いで政長を討って晴元陣営を崩壊させ、長慶の台頭により細川氏綱の名目の旗頭とした陣営の一翼として活動することとなるが、天文20年(1551年)、刺客に暗殺される。暗殺された場所は若江城とも高屋城とも言われている[17]。長教は酒を片手に、帰依していた昵懇の間柄であった僧侶珠阿弥(時宗の僧侶)[18]と歓談しており、酩酊して横になったところを、実は「敵方に買収され」[18]、長教暗殺の命を帯びていた刺客の珠阿弥によって滅多刺しにされて殺害されたという[17]。 事件当時は暗殺の黒幕は当時長慶と敵対関係にあった13代将軍足利義輝と推測されることもあったが[19]、一年後の記述では河内の有力者だった萱振賢継の野心のための謀反と見られており、義輝の関与は推測されていない。萱振氏は安見宗房に粛清され、また根来寺に入っていた長教の弟も三好氏に殺害されている[20]。「天文日記」によれば、遊佐家家中の混乱を収める為、長教の死は100日間秘匿された[18]。その後、娘婿であった長慶は、混乱する遊佐家に介入し、安見氏と萱振氏の婚姻を取りまとめるなど仲裁を行った[18][注釈 3]

長教亡き後、河内は一族の遊佐太藤が少年期の信教に代わって名代となって遊佐氏を纏めていく。

主な家臣 編集

この他、河内国高安郡恩智(八尾市恩智[32])を本拠とする恩智氏や、和泉国出身とみられる草部氏・菱木氏・中小路氏・行松氏らが長教の内衆・被官として確認できる[33]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 順盛は永正8年(1511年)の船岡山合戦で討死したともされるが[9]、その時死亡した「遊佐河内入道印叟」(「不問物語」永正8年8月24日条)は畠山義英(総州家)方の守護代の遊佐就盛(印叟宗盛)である[10]。『臨済宗法語集』(内閣文庫所蔵)には、禅僧の梅屋宗香が天文12年6月18日に河内国の藤原長教が先考(父親)である「前河内太守仙叟覚公禅定公」の13回忌を行った際に詠んだ漢詩が収められている。遊佐氏が藤原氏を称し、順盛が河内守を称したことがあることから、これは遊佐長教が実施した父・順盛の13回忌法要を実施した時に詠まれたものと考えられ、逆算すると順盛は享禄4年(1531年)6月頃に亡くなったことになる。順盛の死が同年6月4日に発生した大物崩れと関連するのか、それとも全くの偶然の出来事かは不明であるが、彼の死が畿内情勢に少なからぬ影響を与えたと推測される[11]
  2. ^ 天文14年3月13日に畠山四郎が一字拝領と家督御礼を幕府に送っており(「天文十四年日記」(『ビブリア』76号、1981年))、この人物が当初の後継者ではないかと思われる。
  3. ^ が、前述の安見による萱振粛清の通りこれは破綻している。

出典 編集

  1. ^ 天文日記、天文5年7月23日
  2. ^ a b 天文日記」天文13年8月25日条
  3. ^ a b 太田亮姓氏家系大辞典第三巻・ナ―ワ』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、6411–6413頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/1174 
  4. ^ a b 天野 2023, p. 364.
  5. ^ 今谷明「室町時代の河内守護」『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局〈叢書・歴史学研究〉、1986年。 
  6. ^ 天野 2023, pp. 364–365.
  7. ^ 天野 2023, p. 365.
  8. ^ a b 天野 2023, pp. 366–367.
  9. ^ "遊佐順盛". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年3月2日閲覧
  10. ^ 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、348頁。ISBN 978-4-642-02950-6 初出:畠山家における奉書の展開と木沢家の出自」『大阪大谷大学歴史文化研究』第17号、2017年http://id.nii.ac.jp/1200/00000298/ 
  11. ^ 畑和良「河内守護代遊佐順盛の没年」『戦国史研究』第86号、2023年9月、P32-33.
  12. ^ 「兼右卿記」天文14年8月19日条
  13. ^ a b 木下昌規 著「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」、木下昌規 編『足利義晴』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第三巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-253-7 初出:『日本歴史』第793号、2014年。 
  14. ^ 『戦国遺文 三好氏編』参考18号、足利義晴御内書
  15. ^ 今谷 2007, p. 141.
  16. ^ 今谷 2007, pp. 141–142.
  17. ^ a b 今谷 2007, p. 164.
  18. ^ a b c d 天野 2014, p. 61.
  19. ^ 「興福寺大般若経奥書」天文20年5月11日条
  20. ^ 「興福寺大般若経奥書」天文22年2月15日条
  21. ^ a b 天野 2023, p. 367.
  22. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 970–971.
  23. ^ a b 弓倉 2006, p. 330.
  24. ^ 弓倉 2006, p. 333; 小谷 2015, 史料29.
  25. ^ 天野 2023, p. 373.
  26. ^ 弓倉 2006, p. 333.
  27. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 337–338.
  28. ^ 小谷 2003, p. 295; 小谷 2015, p. 321.
  29. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、662–663頁。ISBN 4-04-001290-9 
  30. ^ a b c 弓倉 2006, pp. 331–332.
  31. ^ 天野 2023, pp. 378–381.
  32. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 278.
  33. ^ 弓倉 2006, pp. 329–330.

参考文献 編集

関連項目 編集