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舞踊詩遊戯』(仏語Jeux, poème dansé)は、クロード・ドビュッシー1912年に作曲した最後のバレエ音楽ならびに最後の管弦楽曲セルゲイ・ディアギレフが主宰するバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために舞踊の伴奏音楽として作曲された。“jeux”という名詞は、「テニスの試合」と、一人の男性を巡って二人の女性が「恋の鞘当て」を演ずることとの掛詞であり、無邪気な子どもの「お遊戯」という意味ではない。“jeux”は英語では“play”のことである。

筋書き編集

初演時に観客に渡された解説文によると、シナリオは次のとおりである。当時のバレエ・リュスとしては、「現代」や「スポーツ」をテーマとしている点で珍しい。

「夕暮れの庭園。テニスボールがなくなって、一人の青年と二人の娘がボールを捜しに登場する。幻想的な光を3人に投げかける大きな電燈の人工的な照明は、子供じみた遊びを思い付かせる。隠れん坊をしたり、鬼ごっこをしてみたり、口喧嘩したり、わけもなく拗ねたりするのである。夜は暖かく、夜空は青白い光に染まっている。3人は抱きしめ合う。ところが、誰かの手をすり抜けた、もう一つのテニスボールが投げ込まれると、魔法は消える。3人の男女は、驚き慌てて、夜の庭園へと姿を消す。」

作曲の経緯編集

バレエ・リュスの振付家ヴァーツラフ・ニジンスキーと主宰者ディアギレフ[1]は、「テニスをする3人の男女の恋の駆け引き」というバレエのテーマを考案し[2][3]、筋書きとおおまかな振付を決定した後、1912年7月にドビュッシーに作曲を依頼した[4]

ドビュッシーはバレエのテーマを“馬鹿げており非音楽的[5]”として断ったが、ニジンスキーがドビュッシーの音楽でなければ嫌だと駄々をこねたため[6]、報酬を2倍の1万ドル[7]に引き上げてドビュッシーに作曲を承諾させた[8]

バレエ・リュスとドビュッシーの契約は6月28日に交わされ、2ヶ月後の8月23日に曲が完成した[7]。その後、ニジンスキーはバレエの最初と最後をテニスボールが飛んでくるシーンで統一し、音楽も冒頭の和音が結尾で再現されることを希望した。これを受けたディアギレフは10月31日にドビュッシーを訪ねてニジンスキーの要望を伝え、ドビュッシーは手直しを行った[9]

初演編集

初演は1913年5月15日、完成まもないパリのシャンゼリゼ劇場において、ピエール・モントゥーの指揮、ニジンスキーの台本と振付け、レオン・バクストの美術・衣装によって行われた。主役の3人の男女はニジンスキー、カルサヴィナ、ショーラー[10]が演じた。

しかしながら初演の評価は芳しくなく、2週間後の5月29日に同じ演奏陣によって行われたストラヴィンスキーの『春の祭典』の騒動の陰に隠れてしまった。

ニジンスキーによる振り付けは長い間失われていたが、彼の『春の祭典』を復元したミリセント・ホドソン(Millicent Hodson)とケネス・アーチャー (Kenneth Archer)により復元され、2000年ロンドンロイヤル・バレエ団により復活上演された[1]

概要編集

全曲を通して18分程度の長さがある。調性感に乏しいが、冒頭にイ長調の調号が付されており、嬰ヘ長調ハ長調など様々な調を経て、イ音で終わる。

主題の操作、全体構築がきわめて即興的かつ流動的になっている。主題は加工・変形されてもいいし、またされなくても構わない。ただ反復するだけでもいいし、その場合にテンポ音価の変化が加えられても(むろん加えられなくても)構わない。というように、伝統的な意味での展開や動機労作、楽曲全体の統一性は拒否されており、その意味で「開かれた形式」による新しい楽曲構成法、時間認知を開拓したとして、また(特定の音程と楽器法の密接な関わり合いによる)全く新しいオーケストラ書法の上でも20世紀後半にピエール・ブーレーズカールハインツ・シュトックハウゼンらを中心とするグループによって再評価されるようになった。

なお、最初の商業録音は、1947年ヴィクトル・デ・サバタ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団によって行われた。

楽器編成編集

4管編成で厚めの管弦楽法が採られているが、弦楽器金管楽器弱音器の使用、弦楽器のフラジオレットなどの多彩な特殊奏法テクスチュア音色の変幻自在な変化が特徴的である。

ピッコロ2、フルート2、オーボエ3、コーラングレ1、クラリネット(A管、ただしB♭管との持ち替えあり)3、バスクラリネット1、バスーン3、サリュソフォーン1、ホルン(F管)4、トランペット4、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニトライアングルタンブリンシンバルチェレスタ1、シロフォンハープ2、弦楽五部

脚注編集

  1. ^ 当時ニジンスキーとディアギレフは同性愛の関係にあった(リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート、1984年、273ページ)。
  2. ^ 当初、ディアギレフは、ゲイの男性の三角関係を、一方ニジンスキーは飛行機事故を筋書きに取り入れることを考えていたが、最終的にはテニスをする3人の男女の恋の駆け引きという、より穏当な、しかし当時としてはモダンなテーマに落ち着いた。
  3. ^ ニジンスキーとバクストはバレエ・リュスのロンドン公演の際、1912年7月12日にベッドフォード公園を訪れてテニスに興じる人々を観ており、この光景が『遊戯』のアイデアや舞台装置に影響を与えていると考えられている(バックル、前掲書、271ページ)。
  4. ^ ドビュッシーとの仲介、交渉には画家のジャック=エミール・ブランシュ(Jacques Émile Blanche)が当たった(バックル、前掲書、271-272ページ)
  5. ^ バックル、前掲書、272ページ
  6. ^ 芳賀道子『バレエ・リュス その魅力のすべて』国書刊行会、2009年、322ページ
  7. ^ a b 松橋麻利『作曲家・人と作品 ドビュッシー』音楽之友社、2007年、136ページ
  8. ^ 芳賀、前掲書、204ページ
  9. ^ バックル、前掲書、276ページ
  10. ^ ニジンスキーの妹ニジンスカが予定されていたが、妊娠のため変更となった(バックル、前掲書、287ページ)。