遠山直景

戦国時代の武将。後北条氏の家臣。遠山景保の長男。隼人佐、加賀守、丹波守。

遠山 直景(とおやま なおかげ)は、戦国時代美濃国国衆室町幕府の幕臣。後に後北条氏に仕え、武蔵国江戸城代となった。

 
遠山直景
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文2年3月13日(1533年4月7日
別名 通称:四郎左衛門
官位 隼人佐加賀守丹波守
主君 足利義材伊勢宗瑞北条氏綱
氏族 明知遠山氏武蔵遠山氏
父母 父:遠山景保
綱景康光、妙喜尼(諏訪部定勝室)
テンプレートを表示

生涯

編集

明知遠山氏の遠山景保の長男として、美濃国恵那郡遠山荘明知にて生まれた。

はじめは室町幕府に出仕し、美濃および美濃土岐氏に関わりの深い足利義材(義稙)の家臣であったらしい(奉公衆であったとも伝えられる)。その頃、同じく幕府に申次衆として出仕していた伊勢新九郎(伊勢宗瑞、北条早雲)と親密になったと考えられており、遠山氏と同じく関東に下向して重用された、松田氏伊勢氏ら創業時からの後北条氏家臣は、この時期の関係者・仲間と思われる。

大永年間(1521年前後)伝えによれば、明知城を一族の遠山景行に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き宗瑞の配下に入ったとされる。

宗瑞が駿河国今川氏の内紛に介入すべく下向した後も、幕府に仕えていたと思われる。その後、中央政界は明応の政変により義材が京都より追放されて混乱する一方、宗瑞は伊豆国を平定していくが、直景はこの時期に京都を離れて伊豆平定に加わったと思われる。

永正3年(1506年)1月に、直景が寺に寄進をしているのが関東での初見文書と考えられている。この文書に記された花押は宗瑞のものと似ており、つまり直景が宗瑞の臣下に入った、ということをうかがわせる。以降、寺社に対する朱印状が多く見られることから、北条氏家中では幕府での経験を生かして官僚的な仕事をしていたものと推定される。

大永4年(1524年)1月、2代当主・北条氏綱ら北条氏が、扇谷上杉家の拠点であった武蔵江戸城を攻略すると、直景はその城代となった(ただし、城代は別の人物とする説もある)。

直景は当地の治世を実質的に取り仕切っていたといわれており、古河公方足利高基に宛てて、北条氏は高基に敵対しない旨の起請文を掲げているが、つまり直景は古河公方という権威に対しても北条氏を代表して署名できる立場にあった、ということである。

その後も越後守護代長尾為景の元まで家中を代表して使者として出向いたり、上杉方(後述)の長尾憲長が和睦を求めてきた折も使者として動いたりと、北条氏を代表する官僚としての行動が見られる。

軍事面での目立った活動はないが、享禄2年(1529年)には秩父に出陣したといわれる。享禄3年(1530年)1月に北条氏と敵対する川越城上杉朝興の背後を衝こうと出陣し、迎撃に出た上杉方と野戦に及び敗北した。波に乗る上杉方に小沢城(現・川崎市)と世田谷城を攻略され、5日後には江戸城に攻め寄せられ設備を焼かれている。

天文2年(1533年)3月13日に死去した。武蔵遠山氏の名跡、および江戸城代としての地位は、子の綱景が継いだ。以降、遠山氏は北条氏家中において、伊豆衆二十家の一つと数えられ、松田氏大道寺氏と並んで重きを成した(三家老家ともいわれる)。

家系図

編集
遠山直景
  ┣━━━━┓
遠山綱景 遠山康光
  ┃    ┃
遠山政景 遠山康英遠山直景

その他

編集
  • 軍記物の『関東古戦録』巻六では、8余の鉄(かな)棒を振り回し18、9人をなぎ倒した太田康資の戦い様を見て、敵を討つのはわかるが、罪のない馬まで殺すのは恥だと批判し、恥だから甲を脱いで討ち取られよというも、康資の鉄棒に甲を砕かれ、首が胴までめり込み、息絶えるという最期が描かれ、そのため、康資は直景の首はとらなかったという記述がなされている。