遠藤一彦

日本の元プロ野球選手

遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )は、福島県西白河郡西郷村出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者野球評論家。現役時代は横浜大洋ホエールズのエースとして活躍した。元プロ野球選手の遠藤政隆とは従弟にあたる。マネジメント会社は株式会社レガシージャパン

遠藤 一彦
2017年11月23日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県西白河郡西郷村
生年月日 (1955-04-19) 1955年4月19日(68歳)
身長
体重
184 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1977年 ドラフト3位
初出場 1978年8月15日
最終出場 1992年10月7日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 横浜ベイスターズ (1997 - 2003)

経歴 編集

プロ入り前 編集

学法石川高校では1972年、2年生時に中堅手、控え投手として夏の甲子園予選東北大会決勝に進出。東北高と対戦し6回からリリーフに立つが3-6で敗退。翌1973年にはエース、四番打者として県予選決勝に進むが双葉高に1-2で惜敗、甲子園には届かなかった。

卒業後は東海大学工学部に進学。原辰徳野球部の後輩にあたり、在学中は共にプレーしている。首都大学野球リーグでは5回優勝。1976年全日本大学野球選手権大会では、吉田恭之投手(松下電器)との二本柱で勝ち進み、決勝では後に大洋でチームメイトになる斉藤明雄投手を擁する大商大を2-1で降し優勝を飾った。翌1977年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で駒沢大に延長10回の熱戦の末に敗れ、準優勝に終わる。リーグ通算47試合登板、28勝5敗、防御率1.11、200奪三振。最高殊勲選手1回、最優秀投手2回、ベストナイン1回受賞。大学同期に石井昭男外野手、林良孝投手(本田技研鈴鹿)がいる。1977年のドラフト会議横浜大洋ホエールズ[注 1]から3位指名を受け入団。なお大学時代は機械工学を学んでおり、エンジニアになるのが夢だったという。そのためドラフト指名された当初は社会人野球に内定していたこともあり固くプロ入りを拒否していた。しかし地元福島へ帰る電車の中でスカウトが粘り強く説得した結果、入団にこぎつけた。

プロ入り後 編集

1978年シーズン終盤に一軍に昇格しプロ初勝利を挙げるが、監督の別当薫の育成方針によりほとんど二軍生活だった。別当からは春先に下手投げへの変更命令が出ていたが[1]、二軍投手コーチだった堀本律雄から上で投げるようにと進言され[1]、本格派投手としての一歩を踏み出す。

1979年前半戦は先発、後半戦は抑えとして12勝12敗8Sの成績を挙げるも、新人王は13勝を挙げてリーグ勝率1位の藤沢公也中日)が受賞した。

1980年はほぼシーズンを通してリリーフに専念。

1981年に1年先輩の斉藤明雄と入れ替わる形で先発投手に復帰。以後、弱小時代のホエールズのエースとして活躍する。

1982年から6年連続二桁勝利をあげる。

1983年には18勝9敗3S、186奪三振、防御率2.87の成績[2]ベストナイン最多勝最多奪三振、最多完投沢村賞を獲得[注 2]

1984年も17勝17敗、208奪三振の成績で2年連続の最多勝、最多奪三振を記録[3]するものの打線の援護に恵まれず敗戦もリーグワーストを記録した。勝率がジャスト5割での最多勝獲得はセ・リーグではこの年の遠藤のみである[注 3]。17勝目を挙げた10月13日の対ヤクルト戦では9回2アウトまで抑えた所でこの年限りでの現役引退を表明していた平松政次にマウンドを譲り、右翼手の守備に就いた[4]

1986年にも最多奪三振を記録。

1987年10月3日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(後楽園球場)の5回表に三塁への走塁中に右足アキレス腱を断裂[5]

1988年に手術・リハビリを経て一軍復帰するが、急に開幕に間に合わせたことが災いして投球バランスを崩してスタミナも不足し、5勝12敗で防御率4.76と復調せず、連続二桁勝利が途切れた[6]

1990年に10年ぶりにクローザーへ転向し、6勝6敗21Sの成績を挙げ、カムバック賞を受賞した。

1992年シーズン終盤に球団に呼ばれ来年契約はしないと戦力外を告げられ、この年限りで現役を引退[7]。引退試合となった10月7日の巨人戦(横浜スタジアム)は「横浜大洋ホエールズ」として最後の試合[8][注 4]でもあり、消化試合ではあったが最後の勇姿を見ようと詰め掛けたファンで横浜スタジアムは満員となった。2回を無失点、140km/hを超えるストレートとフォークで有終の美を飾った。引退セレモニーではチームのほとんどの選手が涙で引退を惜しみ、ホエールズを長きにわたり一緒に支え続けた斉藤明夫(明雄より改名)とは、共に号泣して抱き合った。

引退後 編集

引退後はTBSテレビラジオ野球解説者(1993年 - 1996年)を経て、古巣・横浜で二軍投手コーチ(1997年 - 1999年)→一軍投手コーチ(2000年 - 2003年)を務めた。2003年はチーム防御率4.80(リーグ最下位)、2桁勝利0人と投手陣の成績が低迷していた。横浜退団後の2004年からはTBSラジオ(2005年まで)・TBSニュースバードテレビ神奈川の野球解説者、2015年からは東京スポーツ野球評論家を務めている[9]

2009年6月1日付で神奈川県鎌倉市観光協会専務理事に就任し6年間務めた[10][11]。2014年1月20日、学生野球資格を回復[12]。現在は野球解説者をやりながら一般企業の営業職に非常勤で勤務し、横浜スタジアム室内練習場で開催しているジャパンアスレチックアカデミー「JAA」で小中学生への野球指導を行っている[11][13]

選手としての特徴 編集

オーバースロー[1]からのストレートの球速は、本人によれば大学時代で135~6km/h程度で、プロ入り後も140km/h台前半だったという[14]。ただし、プロ入り後は140km/h台後半の球速を幾度も記録している。持ち球も入団直後はカーブしかなかったが[15]、入団2年目に最大の武器となるフォークを習得した[15]。フォークは2種類あり、シュート気味に落ちるフォーク、スライダー気味に曲がりながら落ちるフォーク[15]。そのほかチェンジアップも持ち球とした[15]

元巨人のウォーレン・クロマティは遠藤が一番の苦手投手で、自著において「あれなら大リーグでもスターになれる」[16]と断言している。

投手の職業病として野球人の中ではよく知られる股関節の負担は大きかったようであり、引退後に加齢によって股関節の調子が悪化している。2018年9月の記事によると、遠藤は川口和久に「俺、もう動かないんだよ。いいケアがあったら教えてくれ」と弱音を吐いていたという[17]

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1978 大洋 11 2 1 0 1 1 0 0 -- 1.000 96 23.2 20 2 6 1 1 18 0 0 13 12 4.50 1.10
1979 47 24 8 1 0 12 12 8 -- .500 840 203.1 198 29 54 3 1 165 2 0 89 86 3.81 1.24
1980 54 2 0 0 0 5 5 16 -- .500 435 105.0 92 15 31 8 0 108 0 1 41 37 3.17 1.17
1981 35 17 5 0 1 8 11 2 -- .421 586 135.1 144 15 51 5 2 96 3 0 62 59 3.93 1.44
1982 38 34 12 4 1 14 17 1 -- .452 1018 243.2 229 27 71 7 2 177 3 0 98 83 3.06 1.23
1983 36 28 16 3 1 18 9 3 -- .667 959 238.1 219 31 42 7 5 186 2 2 81 76 2.87 1.10
1984 38 37 18 2 3 17 17 0 -- .500 1138 276.2 255 39 60 3 2 208 1 1 132 113 3.68 1.14
1985 28 28 16 2 3 14 7 0 -- .667 869 214.1 188 25 51 1 1 154 2 0 82 75 3.15 1.12
1986 31 31 16 1 7 13 13 0 -- .500 967 233.0 242 29 31 4 1 185 4 0 92 78 3.01 1.17
1987 23 23 15 1 6 14 7 0 -- .667 729 181.1 172 21 25 5 2 107 0 0 62 58 2.88 1.09
1988 23 21 1 0 0 5 12 0 -- .294 465 109.2 123 17 22 1 1 67 0 0 63 58 4.76 1.32
1989 19 16 1 0 0 2 8 0 -- .200 384 89.0 113 22 14 1 2 69 2 0 61 61 6.17 1.43
1990 45 0 0 0 0 6 6 21 -- .500 281 70.2 51 7 18 7 1 55 0 0 21 17 2.17 0.98
1991 19 0 0 0 0 2 2 7 -- .500 108 25.0 26 5 9 3 0 18 2 0 16 16 5.76 1.40
1992 13 13 0 0 0 3 2 0 -- .600 253 59.1 65 7 13 0 0 41 1 0 28 27 4.10 1.31
通算:15年 460 276 109 14 23 134 128 58 -- .511 9128 2208.1 2137 291 498 56 21 1654 22 4 941 856 3.49 1.19
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

表彰 編集

記録 編集

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1984年5月6日、対中日ドラゴンズ6回戦(横浜スタジアム)、7回表3死目に達成
  • 1000奪三振:1985年5月16日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に真弓明信から ※史上70人目
  • 1500投球回数:1986年5月22日、対読売ジャイアンツ9回戦(横浜スタジアム)、6回表2死目に達成
  • 100勝:1986年8月30日、対ヤクルトスワローズ19回戦(鳥屋野運動公園野球場)、9回1失点完投勝利(自責点0) ※史上93人目
  • 1500奪三振:1989年8月20日、対中日ドラゴンズ21回戦(草薙球場)、1回表に川又米利から ※史上30人目
  • 2000投球回数:同上、1回表3死目に達成
その他の記録

背番号 編集

  • 38 (1978年)
  • 24 (1979年 - 1992年)
  • 83 (1997年 - 2003年)

関連情報 編集

著書 編集

  • 『江川は小次郎、俺が武蔵だ!』(ロングセラーズ:1986年3月)

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ドラマ出演 編集

CM出演 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 翌1978年より、本拠地がそれまでの川崎球場から横浜スタジアムへ移転する事が決定したのに伴い、それまでの「大洋ホエールズ」から球団名を改称している。
  2. ^ 球団名が「横浜DeNAベイスターズ」になった2020年現在も同球団で沢村賞を受賞した投手は同年の遠藤が最後で、以降は誰も沢村賞を受賞出来ておらず、球団創設以降受賞者ゼロの千葉ロッテマリーンズを除いて11球団で最も遠ざかっている。また、ホエールズ・ベイスターズでシーズン15勝以上を挙げた投手も球団名が「横浜ベイスターズ」だった1999年の川村丈夫(17勝)が最後である。
  3. ^ パ・リーグでは2001年の松坂大輔の例がある。
  4. ^ この試合で三浦大輔がプロ初登板を果たしている。

出典 編集

  1. ^ a b c 週刊ベースボール2014年11月10日号 P82
  2. ^ 年度別成績 1983年 セントラル・リーグ
  3. ^ 年度別成績 1984年 セントラル・リーグ
  4. ^ 平松政次【後編】“カミソリシュート”で長嶋と名勝負/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年5月17日閲覧。
  5. ^ 【江川卓の衝撃】遠藤一彦を真のエースに変えた「伝説の江川との投げ合い」とは...! - YouTube
  6. ^ 「誰にも渡したくなかった」 元横浜大洋エース、選手寿命縮めた開幕投手の自負と後悔”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ―. 2021年1月14日閲覧。
  7. ^ 【驚愕】ライバル遠藤一彦の突然のクビ。巨人V9の凄さとは・・・【斉藤明夫】【野村弘樹】プロ野球OBクラブチャンネル
  8. ^ 日めくりプロ野球 10月【10月7日】1992年(平4) 大洋ラストゲーム 遠藤一彦引退、三浦大輔初登板」『スポニチアネックス』スポーツニッポン新聞社、2009年10月1日。2020年1月2日閲覧。オリジナルの2020年1月2日時点におけるアーカイブ。
  9. ^ 遠藤一彦氏「巨人の不安は小林捕手」「セの台風の目はDeNA」”. 東京スポーツ (2015年4月1日). 2022年2月23日閲覧。
  10. ^ 鎌倉の“宣伝マン”に元大洋投手・遠藤一彦さん 神奈川新聞 2009年7月9日
  11. ^ a b Vol.8 遠藤一彦さん(2ページ目)”. 横浜中華街公式サイト. 2022年2月23日閲覧。
  12. ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者”. 公益財団法人 日本学生野球協会. 2022年2月23日閲覧。
  13. ^ JAA(ジャパンアスレチックアカデミー)”. JAA. 2022年2月23日閲覧。
  14. ^ 週刊ベースボール2014年11月10日号 P80
  15. ^ a b c d 週刊ベースボール2014年11月10日号 P81
  16. ^ 『さらばサムライ野球』. 講談社. (1991年3月25日). p. 46 
  17. ^ ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 p.93.

関連項目 編集

外部リンク 編集