邢 抱朴(けい ほうぼく、? - 1004年)は、(契丹)の学者政治家本貫応州

経歴 編集

刑部郎中の邢簡と陳氏のあいだの子として生まれた。母の陳氏に五経の教えを受け、学問を好み、古代のことに詳しかった。保寧初年、政事舎人となり、翰林学士に累進した。統和3年(985年)1月、礼部侍郎知制誥となった。統和4年(986年)、山西の州県の治安が悪化していたため、抱朴は雲州宣諭招撫使となり、戸部尚書の位を加えられた。翰林学士承旨に転じ、室昉とともに実録の修撰にあたった。統和9年(991年)、地方の刑事裁判が滞っていたので、李嗣・劉京・張幹・呉浩らとともに諸道に分かれて溜まった案件を処理して帰還した。統和12年(994年)7月、参知政事に任命された。枢密使韓徳譲の推薦により、地方の守令を監察して人事評価をおこなった。母の喪に服すために辞職したが、統和13年(995年)に再び起用された。統和14年(996年)、耶律休哥南京留守となると、また刑事裁判が滞ったので、抱朴が召されて案件を処理した。統和20年(1002年)7月、南院枢密使に転じた。統和22年(1004年)2月、死去すると、侍中の位を追贈された。

弟の邢抱質もまた儒学で知られ、侍中に上った。

伝記資料 編集