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那須 資弥(なす すけみつ)は、江戸時代前期の旗本大名那須氏24代当主。下野国烏山藩初代藩主。

 
那須資弥
時代 江戸時代前期
生誕 寛永5年(1628年[1]
死没 貞享4年6月25日1687年8月2日[2]
改名 増山高春[1][2](初名)/資政→資弥
別名 千福、友之助、資祇
官位 右衛門尉[2]右衛門佐[1]従五位下[1]遠江[1][2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
下野烏山藩
氏族 増山氏那須氏
父母 父:青木利長、養父:那須資景
兄弟 宝樹院徳川家光側室)、増山正利資弥
養兄弟:資重喜連川尊信正室
正室:土井利勝[1]
普明院(平岩氏娘)
増山正弥(長男)、福原資寛(次男)
養子:資徳津軽信政三男)

目次

生涯編集

寛永5年(1628年)、青木利長の次男として誕生した。姉・お楽の方(宝樹院)が、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室であり、4代将軍・家綱の生母であった関係で、正保4年(1647年)11月5日、小姓に召し出され蔵米2000俵を与えられ、12月5日に家光に御目見、12月27日に右衛門尉に叙された[2]慶安4年(1651年)8月16日には、従五位下・右衛門佐に叙任される[1]

承応元年(1652年)2月18日、旗本・那須資景の養子となり、明暦2年(1656年)に資景が没すると遺領5000石を相続し、を資祇、官途名を遠江守に改めた[2]。旗本となった後も、小姓時代の蔵米2000俵は引き続き支給された。寛文4年(1664年)12月8日には下野那須郡内で5000石を加増されると同時に、蔵米2000俵の俸禄は新規の采地2000石に改められ、所領は合計1万2000石となった[1]。ここで那須氏は大名となる石高に達したため、那須藩を再び立藩し、福原に陣屋を構えた。

天和元年(1681年)2月25日、下野那須郡内で8000石を加えられ2万石にて烏山藩を立藩し、烏山城を居城とする[1][2]

長男の増山正弥は兄・増山正利の養嗣子となっていたため、天和3年(1683年)閏5月1日、津軽信政の三男・資徳を養子に迎える。

幕府に提出した養子縁組の願書には、候補者として共に親族である津軽政直(12歳、後の那須資徳。実兄の増山正利の娘である不卯姫の子)と増山正元(3歳。実の長男で増山正利養子の正弥の次男)を挙げて、年齢などにより、前者に決定したとある。しかし養子縁組に際し、次男の福原資寛の存在を隠していた。

貞享4年(1687年)6月25日、死去、享年60。

烏山騒動編集

貞享4年(1687年)8月25日、養子・資徳が那須家の家督を相続したが、実子で次男の資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると訴えたことより(烏山騒動)、同年10月14日に幕府は那須家を改易処分とした。資徳は生家の津軽家に預けられた。津軽家の運動により元禄13年(1700年)5月20日、資徳は旗本として再度取り立てられて家名は復活した。さらに後の宝永5年(1708年)4月5日、那須家は交代寄合となる。

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ a b c d e f g 『那須家譜』

出典編集