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概要編集

新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内」(内藤湖南ら)と「九州」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。

久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする[1]

その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 1]。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 2][注釈 3]

基本論拠編集

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の御井郡、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。

邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。

根拠編集

  • 帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること、[注釈 4]
  • 九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。(北史倭国伝[注釈 5]においては、倭国の領域が東西に五カ月行で、南北が三か月行と記述されている。そのため、南へ3か月の内の2か月であるので、九州内に収まるという意見もある[2]。)
  • 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 6]
  • 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。
  • 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。
  • 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い。
  • 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を棺と見なす見解に基づき、北九州地方に棺が多数出土していることや[注釈 7]、石棺無槨の墳丘墓が多数出現していること。また「無槨」の記述から、槨を持つ畿内の古墳は当てはまらない[注釈 8]
  • 福岡県糸島市平原遺跡出土の大型内行花文鏡伊勢神宮神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること。
  • 福岡県久留米市には、宝賀寿男が、規模や副葬品、石棺無槨、主体部および周囲の集団墓(宝賀は殉葬墓ではないかとする)などの状況が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓記載とよく一致するとする[3]祇園山古墳がある。
  • 奈良県桜井市所在で最古の定型化した前方後円墳といわれる箸墓古墳を、3世紀後半の築造とし、卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。また、当時の朝鮮半島など周辺国の墳墓はいずれも一辺30メートル前後の墳丘墓で、倭国だけが飛び抜けて巨大な墳丘墓(箸墓古墳)を築造したとするのは無理がある。また箸墓古墳に年代的に先行するとされるホケノ山古墳発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の同古墳の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ[4][5]、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため[6]、3世紀中頃とする年代に疑問を呈する意見がある[7]
  • 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

反論編集

  • 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[注釈 9]
  • 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと。ただし使節が倭国の戸数を全て調べたとは考えられず、倭人からの伝聞が含まれると考えられるため、記載された戸数が必ずしも正確とは断定できない。
  • 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。ただし九州説では卑弥呼の時代を古墳開始期説として採用しないため、これは反論にならない。
  • 古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、これは1966年に佐原真らによって提唱され1975年に佐原本人が撤回し、現在は3世紀説が多く指示されている。ただし上述のホケノ山古墳の報告事例などから、その開始期を見直そうとする議論も行われている。

3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点編集

はやくから薮田嘉一郎森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、安本美典宝賀寿男など、その後の九州論者はほとんどこの説に追随、またはこれに近い説を表明している。
三角縁神獣鏡を、の鏡またはの工人の作であり、の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もある。しかし、様式論からはの作ではないとされ、少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない[注釈 10]。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。ただし畿内と北九州を別勢力と見た場合、優位性だけで位置を断定できない。

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの

  • 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説がある。しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。

短里説編集

距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経・一寸千里法)である[注釈 11]。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている。またこの短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている。

論者編集

邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石白鳥庫吉原田大六田中卓[8]古田武彦鳥越憲三郎[9]若井敏明[10]安本美典宝賀寿男らがいる。また『記紀』などの国内資料に基づく研究については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、考慮されない傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している[11]

主な比定地編集

筑紫平野編集

古くから支持されており、人口が多く「ヤマト」の地名に関係しそうな山本郡御井郡域である久留米説を始め、平塚川添遺跡甘木朝倉説、八女津媛伝説のある八女説、吉野ケ里遺跡もこれに含まれる。卑弥呼の冢としては、宝賀寿男により久留米市にある祇園山古墳が有力とする意見がある[3]

福岡平野編集

奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説。伊都国や奴国から放射説行程とする説もある。

佐賀平野編集

唐津から松浦川沿いや現国道323号沿いなどの経路で佐賀平野に抜ける説。広くは吉野ケ里説もこれに当たる。

宇佐編集

経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮周辺を邪馬台国と見る説。この地には神武東征時に神武天皇へ協力した宇佐氏宇佐国造)が存在する。

筑後国山門郡編集

新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。ただし大和と山門は音韻が異なり、これを否定する説がある。

阿蘇カルデラ編集

阿蘇山 を擁し 、火国建日向日豊久士比泥別)一の宮阿蘇神社がある。崇神天皇の御代から神武天皇の子孫の多氏系である阿蘇氏阿蘇国造)が祭祀を執り行い続けている。短里説で帯方郡から一万二千余里となる。石原洋三郎によれば、『南史倭国伝 [12]』に、「倭国の先祖の出た場所、及び所在については北史に詳しく記述されている」とあり、『北史倭国伝[13]では、阿蘇山が詳述されている[14]とのことである。

東遷説編集

国家東遷説編集

神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。白鳥庫吉和辻哲郎[15]が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。

栗山周一黒板勝美林家友次郎飯島忠夫和田清[16]榎一雄[17]橋本増吉植村清二市村其三郎坂本太郎[18]井上光貞[19]森浩一中川成夫谷川健一金子武雄[要曖昧さ回避]布目順郎安本美典奥野正男らが論者。

少数東征説編集

記紀の神武東征を実際の歴史の神話化と見るのは上記説と一部被るが、北東アジア史を通して国家の危機でもない限り、国が丸ごと移動する例は他になく、氏族の動向や地理・科学的な面からも国家規模の東遷はありえず、神武天皇とそれに伴う少数者の東征と見る説。上記説の弱点である東征理由も、北東アジア史においてままある諸王が新天地を求めた結果としている。

宝賀寿男足立倫行らが論者。

邪馬台国=高天原説編集

記紀における神話は、何がしかの史実が反映されたものと考え、邪馬台国とは高天原であり、ヤマト発祥の地と考える説である(高天原#地上説参照)。卑弥呼天照大御神説や、卑弥呼の死を天岩戸と捉える説(卑弥呼#天照大神説参照)、東遷説(神武東征)と密接に結びつく。また、247年に北方の邪馬台国(=高天原)が南方の狗奴国に向かって攻撃した出来事を天孫降臨と結びつけて考える説もある(難升米#人物比定参照)。

異説編集

古田武彦によって提唱された説に、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝(太宰府首都)があったとする九州王朝説がある、古田は「」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者はかつてから存在しており、古くは鶴峰戊申から戦後では長沼賢海らがいる。

ただし現在、本説は、井上光貞榎一雄山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されている。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 前者は記紀に見える景行・成務・仲哀朝における北九州征伐を想定する。後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
  2. ^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)
  3. ^ 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降、衰亡したとする説。史学雑誌に論文が掲載されるなど学界で注目を集めたこともある。)。
  4. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  5. ^ 石原道博編訳の『魏志倭人伝』p17(岩波文庫)において、『隋書』は『魏志』・『魏略』・『後漢書』・『宋書』・『梁書』を参考にしながら、「総合的に記述」されており、『北史』は『隋書』・『梁書』によっているとのことで、「その記述内容はおたがいに密接な関係を持っていることが特徴」と説明されている。P40『魏志』においては、帯方郡から邪馬台国への行程で登場する一大国は、北史の一支国が正しいと説明され、活用されている。また、『隋書』でも、『魏志』・『北史』が活用されている。小学館大辞泉』「北史」によれば、公正・詳密な記述で史料的価値が高い。精選版『日本国語大辞典』によれば、詳密な記述で史料価値が高い、と評価されている。
  6. ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
  7. ^ 現在では、3世紀には既に甕棺は極めてまれにしか存在しなかったことが判明している。
  8. ^ 箸墓古墳と同年代の築造かそれより先行するホケノ山古墳が有棺有槨である上、造営年代が4世紀前半ではないかと疑問視する意見がある。
  9. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
  10. ^ 一般的には概ねの領域と考えられている。
  11. ^ 古田武彦は、『古代史の「ゆがみ」を正す』のなかでの谷本茂氏との対談で、【『「邪馬台国」はなかった』の時には75~90mと考えていたが、76~77mという値で現在は考えている】と言っている。

出典編集

  1. ^ 久米雅雄 1986, 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。
  2. ^ 『邪馬台国』石原洋三郎 2019年(令和元年)10月 第一印刷
  3. ^ a b 宝賀 2001, pp. 62-95.
  4. ^ 岡林, 水野 & 北山 2008, pp. 289-291.
  5. ^ ホケノ山古墳と箸墓古墳” (日本語). 橿原考古学研究所附属博物館. 2019年10月28日閲覧。
  6. ^ 奥山 2008, pp. 191-192.
  7. ^ 『ホケノ山古墳の年代について』” (日本語). 邪馬台国の会. 2019年10月28日閲覧。
  8. ^ 若井 2010, p. 7
  9. ^ 「大いなる邪馬台国」ほか
  10. ^ 若井 2010
  11. ^ 若井 2010, p. 7-12
  12. ^ 精選版 日本国語大辞典によれば、「南朝北朝の歴史がそれぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集している。」、世界大百科辞典 第2版によれば、「南朝北朝のそれぞれの正史よりもひろく読まれた。」とある。
  13. ^ 小学館大辞泉によれば、「公正・詳密な記述で史料的価値が高い。」、精選版 日本国語大辞典によれば、「詳密な記述で史料価値が高い。」とある。 また、石原道博編訳の『魏志倭人伝』p17(岩波文庫)において、『隋書』は『魏志』・『魏略』・『後漢書』・『宋書』・『梁書』を参考にしながら、「総合的に記述」されており、『北史』は『隋書』・『梁書』によっているとのことで、「その記述内容はおたがいに密接な関係を持っていることが特徴」と説明されている。
  14. ^ 邪馬台国 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 p43-50
  15. ^ 大正9年『日本古代文化』
  16. ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日」
  17. ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。
  18. ^ 『国家の誕生』
  19. ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。

参考文献編集

  • 久米雅雄ほか『歴史における政治と民衆 : 北山茂夫追悼日本史学論集』日本史論叢会、1986年1月。NCID BN03024587
  • 宝賀寿男卑弥呼の冢補論-祇園山古墳とその周辺-」『季刊・古代史の海』第26巻、「古代史の海」の会、2001年12月20日、 62-96頁、 ISSN 13415522NAID 40005104602
  • 若井, 敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642056946
  • 奥山, 誠義「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、191-192頁。ISBN 9784902777611NCID BA89391331
  • 岡林, 孝作、水野, 敏典、北山, 峰生「実年代について」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、289-291頁。ISBN 9784902777611NCID BA89391331