郭聖通

後漢の光武帝の最初の皇后

郭 聖通(かく せいつう)は、後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の皇后。別称は光武郭皇后冀州真定国藁城県の人。

郭皇后
後漢の皇后
在位 26年 - 41年

全名 郭聖通
別称 光武郭皇后
出生 不詳
冀州真定国藁城県
死去 建武28年6月7日
52年7月22日
洛陽
結婚 更始2年(24年
配偶者 光武帝(劉秀)
子女 劉彊
劉輔
劉康
劉延
劉焉
父親 郭昌
母親 郭主
郭況
叔父 劉楊(劉揚)
従兄弟 郭竟、郭匡
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事跡編集

光武帝の皇后となる編集

真定国の名族の生まれである。父の郭昌は、巨大な田宅財産を異母弟に譲り、国人から義とされた。郭昌は真定恭王劉普の娘を娶り(以後、劉普の娘は郭主と号す)、娘の聖通と子の況が生まれた。郭昌は早くに死去し、姉弟は郭主によって養育された。

更始2年(24年)春、劉秀は河北の王郎討伐の途中に真定に立ち寄り、この時、郭聖通を娶った。これは、劉秀が郭聖通の叔父の劉楊(劉揚)との関係を強化しようと目論んだことも動機である。劉秀が光武帝として即位すると、郭聖通は貴人として立てられた。

建武元年(25年)、郭聖通は皇子の劉彊を生んだ。また、当時16歳であった弟の郭況も黄門侍郎として登用されている。翌建武2年(26年)、郭聖通は皇后に、劉彊が皇太子に、それぞれ立てられた。なお同年には、真定王となっていた劉楊が謀反を企んだとして、光武帝の命を受けた前将軍耿純により誅殺されている。

廃后とその後編集

建武14年(38年)に郭況が城門校尉に昇進した頃から、郭聖通は光武帝からの寵愛が衰えたため、しばしば恨みを抱くようになる。そのため建武17年(41年)、郭聖通は皇后から廃され、陰麗華に取って代わられた。この時、光武帝が三公に詔を下して言うには、「郭皇后は恨みを抱き、教令に違背しており、また、その他の子(異腹の子)を教え諭し、従わせることができなかった(「不能撫循它子、訓長異室」)。それは、宮中にあたかも鷹や隼(「鷹鸇」)が在るかのようであった」とのことである。

このとき、劉彊も自ら望んで皇太子を廃された。そして、郭聖通の2番目の子である劉輔が中山王に封じられたことにより(このとき、常山郡が中山国と改められている)、郭聖通は中山王太后となっている。ただし郭氏全体としては、郭聖通の廃后によっても失脚することはなかった。むしろ郭況が大国の陽安侯に封じられたことを筆頭に、かえってその地位を高める結果となった。建武20年(44年)、劉輔が沛王に転じたことに伴い、郭聖通は沛王太后となった。

建武28年(52年)、郭聖通は死去した。北邙山に葬られている。光武帝は郭聖通を憐れむとして、郭況の子である郭璜に淯陽公主を娶わせ、郎官として登用した。

参考文献編集