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酒井 忠朝(さかい ただとも、元和5年(1619年) - 寛文2年3月24日1662年5月12日))は、江戸時代の幕閣。若年寄

若狭小浜藩初代藩主・酒井忠勝の長男。母は松平親能の娘。正室は久松松平定行の娘おまん。子は忠国(四男)、忠雄(五男)、野々口為重(六男)、久松松平定安(七男)、娘(越前松平直明正室)、娘(亀井政直継室)、娘(青山景英室)。幼名・隼人。官位は備後守、従五位下。

前半生編集

若狭小浜藩嫡子として生まれ、寛永8年(1631年)に元服。寛永12年(1635年小姓組番頭を皮切りに、奏者番若年寄などを歴任した。大老をも務めた江戸幕府の重鎮である忠勝の、内外共に認める後継者として幕閣の若手の出世育成コースを駆けた。『古事類苑』に拠れば

若年寄トハ、老中即チ年寄ニ対スル称ニテ、若年老中ノ謂ナリ、此職名ハ、土井利隆、酒井忠朝ノ如キ、大老ノ子ニシテ、父ニ随ヒテ政事ニ参セシ時、俗ニ若年寄ト称セシニ始マレリ

とあり、土井利勝の後継者としての利隆、酒井忠勝の後継者としての忠朝は、将来の幕府を背負って立つ若手官僚として育成されていたことが伝わる(出世もほぼ同時である)。つまり酒井家家中だけではなく、幕府からも公に後継者として認められていた上での政治活動である。学問は林羅山に学んだと伝わる。

廃嫡、後半生、子孫編集

慶安2年(1649年廃嫡勘当される。若狭小浜藩嫡子の座は、末弟である忠直に替わった。 廃嫡および幕閣追放の理由は定かではないが、他の閣僚との深刻な対立があったとも伝わる。忠勝の勘気を被ったとも、また忠勝および酒井家家中としては、この廃嫡は本意ではなかったともされる。

寛文元年(1661年)、小浜酒井家の領地である安房国市部村に移り、勘当は解かれぬまま翌年同所で没した。遺体は安房にて荼毘に付され、小浜の酒井家菩提寺の空印寺へ埋葬された。若狭小浜藩歴代藩主と同格の墓が現存している。のちに小浜藩を継いだ弟の忠直は、兄忠朝の長男忠国に対し、小浜藩安房領などから1万石を分知し、安房勝山藩が立てられ、子孫は大名となった。

酒井忠朝が登場する作品編集