酒井忠起
酒井 忠起(さかい ただおき)は、江戸時代中期の出羽国松山藩の世嗣。別名に忠躬。官位は山城守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保20年8月15日(1735年10月1日)[1] |
死没 | 明和4年6月9日(1767年7月4日) |
改名 | 亀之助(幼名)、忠起 |
別名 | 忠躬 |
官位 | 山城守 |
藩 | 出羽松山藩世嗣 |
氏族 | 酒井氏(左衛門尉家) |
父母 |
酒井忠英 酒井忠休 |
兄弟 | 忠郷、忠起ら |
妻 | 政姫 |
子 | 忠夷、伊東祐政室 |
略歴
編集出羽松山藩の世嗣だった酒井忠英の次男として誕生。幼名は亀之助。正室は新発田藩主・溝口直温の長女・政姫。
父・忠英が盲目で廃嫡されたため、松山藩3代藩主に就任した酒井忠休の養子となった。はじめ兄・忠郷が嫡子となったが夭折したため、代わって嫡子となった。しかし、実子を跡継ぎにしたい藩主・忠休との関係が悪く、家中も2つに分裂して「宝暦騒動」と呼ばれる抗争に発展した。
明和4年(1767年)に死去し、忠休の次男・忠崇が家督を継いだ。これに対し、忠起の長男・忠夷の子の忠恕には給米3000俵が与えられ、別家を立てた。
略系図
編集酒井忠予2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠英 | 忠寄(5) | 忠休3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠郷※a | 忠起※b | 忠温(6) | 忠崇4 | 忠郷※a | 忠起※b | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠徳(7) | 忠順 | 忠夷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠礼5 | 娘 | 忠恕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子および婚姻を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- ※印は、同じ英字を付した人物が同一人物であることを示す。
- 太字の数字 2, 3…… は松山藩主代数を示す。
- 括弧つきの数字 (5), (6)…… は庄内藩主代数を示す。
脚注
編集- ^ 『新編庄内人名辞典』(庄内人名辞典刊行会、1986年)p.321