野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年明治8年〉12月8日 - 1947年昭和22年〉7月13日)は、明治大正・昭和前期の英詩人小説家評論家俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望され[注釈 1]太平洋戦争には協力的であった。

野口 米次郎
(のぐち よねじろう)
Yone Noguchi.jpg
ペンネーム ヨネ・ノグチ(Yone Noguchi)
誕生 (1875-12-08) 1875年12月8日
日本の旗 日本愛知県海部郡津島町
(現・津島市
死没 (1947-07-13) 1947年7月13日(71歳没)
日本の旗 日本茨城県結城郡豊岡村
(現・常総市
墓地 日本の旗 日本常光寺
職業 詩人新聞記者随筆家文学評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学部文学科
(現・慶應義塾大学英文学科
活動期間 1897年 - 1947年
ジャンル 散文詩小説文芸評論
文学活動 イマジズム
代表作 『The American Diary of a Japanese Girl』(1901年)
『From the Eastern Sea』(1903年)
『芭蕉論』(1925年)
『藝術殿』(1943年)
主な受賞歴 帝国芸術院賞1943年
デビュー作 『Seen & Unseen』(1896年
配偶者 レオニー・ギルモア
子供 イサム・ノグチ
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愛知県津島市天王川公園内にあるヨネ・ノグチ像

経歴編集

[1]

 
The American Diary of a Japanese Girl(1901年(明治34年)現地出版)

渡米編集

愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。先祖は源氏足利系の武士である。10歳で英語を学び始める。

1888年(明治21年)生家を離れ名古屋英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも[2]1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し[注釈 2]、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓[注釈 3]。ここより私立中学校であった神田駿河台の英語塾成立学舎に通い[3][4]マコーリーの『クライヴ卿』を学ぶ[5]。高等学校進学を検討したが数学を嫌って[6]1891年(明治24年)慶應義塾大学部文学科に入学。ハーバート・スペンサーの『教育論』やトーマス・カーライルの『英雄崇拝論』の講義を聞いたが[注釈 4]、通学を好まず[7]ワシントン・アーヴィングの『スケッチ・ブック』[注釈 5]オリヴァー・ゴールドスミスの詩集『寒村行』及びトマス・グレイの詩集から大きな影響を受け、それらの翻訳も試みた[8]。その他、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローエドガー・アラン・ポーなどの文学本を読み耽る。また、俳句にも興味を抱き、1892年(明治25年)には芝山内の其角堂永機を訪ねた。1893年(明治26年)に芝の地理学者志賀重昂の家に学僕として寄宿[9]。志賀宅に来客した菅原傳が北米事情を語るのを隣室で聞き、渡米を決意してパスポート下附を申請し[10]、慶應義塾を中退する[注釈 6]

11月3日に横浜から汽船ベルジック号で渡米し[注釈 7][注釈 8]、11月20日にサンフランシスコに到着した。邦字新聞の配達を行う。1894年(明治27年)、日本の木版画の販売に従事する。徒歩でサンフランシスコからパロアルトに赴き、スタンフォード大学で予備校の学僕をしながら授業を受け、この頃、エドガー・アラン・ポーの詩集に親しむ。1895年(明治28年)サンフランシスコに戻り[11]、現地の『日本字新聞社』で編集及び配達を行う。日清戦争下の当時、日本軍の勝報に興味を持ち、かつアメリカ人が日本事情に無知であることを知る[12]。4月、オークランド山荘に住む詩人・Joaquin Miller(ホアキン・ミラー)を知り、ミラーの好意により、壮大な美しい自然環境の同地に留まり、原稿整理を手伝いながら大いに学び、山荘を訪れる詩人エドウィン・マーカムやチャールス・ウァレン・スタダード博士らとも交わる。ウォルト・ホイットマンの詩集を初めて読む[13]

1896年(明治29年)に最初の自作詩5篇がGelett Burgessの雑誌『ラーク』に掲載され、その編集刊行者であるジレット・バージェスとポーター・ガーネットと親交を結ぶ[14]。12月に同社から英文第一詩集の『Seen & Unseen』が刊行され好評を受ける。1897年(明治30年)にヨセミテ国立公園を訪れ、大瀑布に感動して1週間現地に滞在してから戻り、第二詩集『The Voice of the Valley』を刊行[15]1899年(明治32年)の夏にシカゴに入り、『イブニング・ポスト(現・ニューヨーク・ポスト)』夕刊新聞の寄稿者となる。数ケ月滞在ののち、ニューヨークに出て、アメリカ人の家に寄宿して[16]作家教師レオニー・ギルモア(Leonie Gilmour)と出会い、ボーイとして働く。1901年(明治34年)に『The American Diary of a Japanese Girl(日本少女のアメリカ日記)』を匿名で書く。その続編『The American Letters of a Japanese Parlor-Maid(日本人小間使のアメリカ書翰)』の出版資金でロンドンに渡る[17]

渡英から帰国後編集

1902年(明治35年)11月20日ロンドンに到着。旧友である画家牧野義雄に再会しブリキストン街の下宿に同宿した[18]1903年(明治36年)1月には自費により『From the Eastern Sea』をロンドンの出版社から刊行して非常な好評をよび、アーサー・シモンズウィリアム・バトラー・イェイツWilliam Michael Rossetti等文壇人の知遇を得る。3月、同詩集の増補拡大版を出す。5月、ボストンに帰る[19]。翌1904年(明治37年)に日露戦争の報道を目的として、ニューヨーク・イブニング・ペーパー『グローブ』社の日本通信員として9月に帰国する。帰朝第一夜は日本橋の次兄高木藤太郎邸で過ごす。11月より三兄野口祐眞僧正の藤沢常光寺に寄寓する[注釈 9]。12月に『帰朝の記』を春陽堂より刊行。

1905年(明治38年)4月に慶應義塾の招聘により文学部英文科の主任教授に就任。11月に東京市小石川区久堅町(現・小石川、白山)に借家をして移り住み、英文の散文詩集『The Summer Cloud』を発表。12月、上海旅行。1906年(明治39年)1月下旬上海より帰国。久堅町の家の女中だった武田まつ子と結婚。この年、国際的な詩人の会「あやめ會」を結成[注釈 10][注釈 11]。6月1日野口はあやめ會編輯主任の立場で、同会の第一詩集『あやめ草』を如山堂より出版する。11月より1908年(明治41年)にかけて、ほぼ毎週ジャパンタイムズの文芸批評コラム欄を担当する[20]。12月19日あやめ會の第二詩集『豐旗雲』を佐久良書房より出版。しかし、会員間のもめごとが原因であやめ會を解散する[21]1907年(明治40年)レオニー・ギルモアとレオニーとのあいだにできた息子であり後に彫刻家となるイサム・ノグチが2月7日サンフランシスコ発アメリカ丸で3月3日横浜に到着。久堅町で野口、レオニー、イサムが同居する。5月東京を離れて、鎌倉円覚寺蔵六庵に入る[注釈 12]。英訳「百人一首」を『早稲田文學』5月~8月号に掲載する。初秋、茗荷谷に移転。同年、武田まつ子が長女一二三を出産。1908年、7月茗荷谷から牛込区西五軒町に移転。再度、書斎を円覚寺蔵六庵に持つ。1909年(明治42年)レオニーとイサムは大森に転居、公に別居。1910年(明治43年)まつ子は長男春男を出産。

1913年大正2年)東京都中野区東中野に新築転居[22]。8月父死去。10月にオックスフォード大学の招きにより離日、マルセイユパリを経てロンドンに12月20日に到着。翌1914年(大正3年)1月29日、オックスフォード大学の講師として松尾芭蕉の俳諧について、英語で講演を行う[注釈 13]。講演集『日本詩歌論』をロンドンで出版し、ジョージ・バーナード・ショーハーバート・ジョージ・ウェルズエドワード・カーペンター等多くの文人と会談。また、開催中であったウィリアム・ブレイクの展覧会を見る[注釈 14]。4月にパリで島崎藤村と会い10日間同宿する。その後ロンドンに戻り、ベルリンからモスクワを経てシベリア鉄道で6月に帰国。1919年(大正8年)6月に岩波書店より『六大浮世絵師』を刊行した後、10月14日渡米。スタンフォード大学カリフォルニア大学バークレー校シカゴ大学ユタ大学などアメリカ全土を講演旅行し、さらにカナダのトロント大学なども訪れた。また、ニューヨークにてイェイツに再会する。1920年(大正9年)3月母死去。4月米国より帰国[注釈 15]。12月二女四方子死去。

日本詩への傾倒編集

1921年(大正10年)に最初の日本語詩集『二重国籍者の詩』を刊行したのを皮切りに、詩集を次々と発表し、1925年(大正14年)には『芭蕉論』を刊行し、日本の浮世絵についての評論執筆が多くなる。1926年(大正15年)、詩話會の機関誌『日本詩人』5月号が「野口米次郎記念號」として刊行され50歳の誕生を祝賀される[23][注釈 16][注釈 17][24]1935年昭和10年)からはアジア研究にも傾倒し始め、10月にインドの各州立大学での講演旅行のため[注釈 18]、10月16日神戸を出帆する。上海では10月21日魯迅と会談。長くインドに滞在し、カルカッタ、ダージリン、タイガーヒル、ブダガヤ、アグラ、ボンベイ、アジャンタと移動。10月29日サンティニケタンのタゴール家泊。10月31日ガンジーと会見。1936年(昭和11年)1月4日詩人Sarojini Naiduと会う[25]。ほかに、ラース・ビハーリー・ボースらと深く交わり、この頃から東アジアにおける日本の立場に対する理解を国際社会に求めた。2月7日コロンボ発、帰国。「ガンジーと語る」を『東方公論』に発表、さらに『印度は語る』を第一書房より刊行。1938年(昭和13年)『文藝春秋』11月号に「三度タゴールに與ふ」を発表[注釈 19][注釈 20]

1943年(昭和18年)5月25日、NHKより高村光太郎佐藤惣之助西条八十尾崎喜八とともに「海と詩と音楽」を放送する[26]。『藝術殿』『詩歌殿』『文藝殿』『想思殿』の一連の刊行業績により、1944年(昭和19年)帝國藝術院より、第二部(文芸)において第2回帝國藝術院賞を授与された。1945年(昭和20年)4月19日夜半の東京大空襲により東京・東中野の自宅が全焼し、防空壕で一夜を明かし、すぐ茨城県結城郡豊岡村(現・常総市)へ疎開[注釈 21]1947年(昭和22年)に胃癌により豊岡で死去。茨城県豊岡で密葬されたのち、東中野の自宅焼跡でテントを張って、告別式が行われた[27]。墓所は、神奈川県藤沢市常光寺

法名は天籟院澄誉杢文無窮居士

晩年の大戦下では戦争讃美した著述活動だったこともあり、戦後しばらく封印された「忘れられた作家」であった。欧米でその業績や生涯が見直されて再評価されている。

著書編集

日本語詩・評論編集

  • 歸朝の記』(1904)[注釈 22]
  • 英米の十三年』(1905)[注釈 23]
  • 『邦文 日本少女の米國日記』(1905)
  • 『日本詩歌論』(1915)[注釈 24]
  • 『歐州文壇印象記』(1916)
  • 『六大浮世繪師』(1919, 1932-1933, 1934)[注釈 25]
  • 『日本の美術』 (1920)
  • 『二重國籍者の詩』(1921)[注釈 26]
  • 『二重國籍者の詩 林檎一つ落つ』(1922)[注釈 27]
  • 『沈默の血汐』(1922)
  • 『野口米次郎詩論』(1922)
  • 『敵を愛せ』(1922)
  • 『山上に立つ 詩集』(1923)[注釈 28]
  • 『最後の舞踏 詩集』(1923)
  • 『我が手を見よ』(1923)
  • 『霧の倫敦 印象録』(1923, 1926)
  • 『野口米次郎英詩選集』(1924)
  • 『ヨネ・ノグチ 代表詩』(1924)
  • 『先驅者の言葉』(1924)
  • 『坐る人間の評論』(1925)
  • 『芭蕉論』(1925)
  • 『光悦と抱一』(1925)
  • 『松の木の日本』(1925)
  • 『能樂の鑑賞』(1925)
  • 『米國文学論』(1925)
  • 『光琳と乾山』(1925)
  • 『表象抒情詩集 第一~第四』(1925-1927)
  • 『春信と清長』(1926)
  • 『寫樂』(1926)
  • 『歌麿北齋廣重論』(1926)
  • 『蕪村俳句選評』(1926)
  • 『芭蕉俳句選評』(1926)
  • 『ポオ評傳』(1926)
  • 『小泉八雲』(1926) 
  • 『萬葉論』(1926)
  • 『神祕の日本』(1926)
  • 『詩の本質』(1926)
  • 『人生五十年』(1926)
  • 『蕉門俳人論』(1926)
  • 『眞日本主義』(1926)
  • 『春信清長寫樂論 附・大蘇芳年』(1926)
  • 『戀愛の詩人』(1926)
  • 『自然禮讃』(1926)
  • 『印度の詩人』(1926)
  • 『米次郎随筆』(1926)
  • 『米次郎獨語』(1926)
  • 『米次郎講演』(1926)
  • 『愛蘭情調』(1926)
  • 『海外の交友』(1926)
  • 『外人の心理』(1926)
  • 『畫壇の人人』(1927)
  • 『舞臺の人人』(1927)
  • 『詩人の郷土』(1927)
  • 『書齊の消息』(1927)
  • 『藝術の東洋主義』(1927)
  • 『私は現代風景を切る』(1928)[注釈 29]
  • 『放たれた西行』(1928)
  • 『日本美術讀本』(1928)
  • 『人生詩集』(1929)
  • 『芭蕉論』(1929)
  • 『芭蕉俳句選評』(1929)
  • 『浮世繪解説』(1929)
  • 『西行全集』(1929)[注釈 30]
  • 『夢と文學』(1930)
  • 趣味の支那漫談』(1930)
  • 『喜多川歌麿』(1931, 1932)[注釈 31]
  • 『日本國民讀本』(1932)
  • 『微笑の人生讀本』(1933)
  • 『魂の記録讀本』(1933)
  • 『近代生活讀本』(1933)
  • 『自然禮讃讀本』(1933)
  • 『俳人芭蕉』(1933)
  • 『印度は語る』(1936)[注釈 32]
  • 『人生讀本 春夏秋冬』(1937)[注釈 33]
  • 『われ日本人なり エツセイ随筆集』(1938)
  • 『强い力弱い力』(1939)
  • 『起てよ印度』(1942)
  • 『宣戰布告』(1942)[注釈 34]
  • 『藝術殿』(1942)[注釈 35]
  • 『詩歌殿』(1943)[注釈 36]
  • 傳統について』(1943)[注釈 37]
  • 『聖雄ガンジー』(1943)
  • 文藝殿』(1943)[注釈 38]
  • 『想思殿』(1943)[注釈 39]
  • 八紘頌一百篇』(1944)
  • 喜多川歌麿』(1946)
  • 『自叙傳斷章』(1947)

英文作品編集

  • Seen & Unseen, or, Monologues of a Homeless Snail (1897, 1920)
  • The Voice of the Valley (1897)[注釈 40]
  • The American Diary of a Japanese Girl (1902, 1904, 1912, 2007 [1])
  • From the Eastern Sea (pamphlet) (1903)
  • From the Eastern Sea (1903, 1903, 1905, 1910)[注釈 41]
  • The American Letters of a Japanese Parlor Maid (1905)[注釈 42]
  • Japan of Sword and Love (1905)[注釈 43]
  • The Summer Cloud (1906)
  • Ten Kiogen in English (1907)
  • The Pilgrimage (1909, 1912)
  • Kamakura (1910)
  • Lafcadio Hearn in Japan (1910, 1911)[注釈 44]
  • The Spirit of Japanese Poetry (1914)
  • The Story of Yone Noguchi: Told by Himself (1914, 1915)[注釈 45]
  • Through the Torii (1914, 1922)[注釈 46]
  • The Spirit of Japanese Art (1915)
  • Japanese Hokkus (1920)[注釈 47]
  • Japan and America (1921)
  • Hiroshige (1921)
  • Selected Poems of Yone Noguchi (1921)
  • Korin (1922)
  • Utamaro (1924)
  • Selected Poems: The works of Yone Noguchi (1924)
  • Hokusai (1925)
  • Harunobu (1927)
  • Sharaku (1932)
  • The Ukiyoye Primitives (1933)
  • Hiroshige (1934)
  • Hiroshige and Japanese Landscapes (1934)
  • The Ganges Calls Me (1938)
  • Harunobu (1940)
  • Hiroshige (1940)
  • Emperor Shomu and the Shosoin (1941).
  • Collected English Letters, ed. Ikuko Atsumi (1975).
  • Selected English Writings of Yone Noguchi: An East-West Literary Assimilation, ed. Yoshinobu Hakutani, 2 v. (1990–1992).
  • Collected English Works of Yone Noguchi: Poems, Novels and Literary Essays, ed. Shunsuke Kamei, 6 v. (2007)[2]
    • 「ヨネ・ノグチ英文著作集」全6冊+別冊日本語解説、教育出版(2007)

その他の日本語文献編集

  • エドモン・ド・ゴンクールの『ゴンクウルの歌麿』(第一書房、1929年)を訳・解説している[注釈 48]
  • 作家en:Zona GaleRomance Island (1906)を舞台をアジアに移して翻案翻訳し、『幻島ロマンス』(改造社、1929年)の題で、世界大衆文学全集の1冊として刊行している。
  • 『抒情英詩集』(寶文館、1930年)では、ブレイクワーズワースほかの詩人の作品を集成し、英詩と日本訳とを対照[注釈 49]
  • ブラウニング詩集』(第一書房、1930年)は、27編の詩文を訳している。
  • 『英米文学評傳叢書 第93 ポオ』(研究社、1934年)の著者となっている。
  • 復刻版で 『野口米次郎選集』 (全3巻、クレス出版、1998年)
  • 訳書『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』(伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年)がある。
  • 『詩人野口米次郎』(シェラード・ヴァインズ著[注釈 50]、第一書房、1925年)[注釈 51]
  • 『詩人ヨネ・ノグチ研究』(全3巻、外山卯三郎編著、造形美術協会出版局、1963、1965、1975年)
  • 『詩人ヨネ・ノグチの詩』(外山卯三郎編著、造形美術協会出版局、1966年)

交遊人物編集

演じた俳優編集

映画編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 「日本の文芸家からノーベル賞金の受領者を詮衡するとしたら、差向き第一に選に上るは野口ヨネ君であろう。」(内田魯庵)「世界的に承認される亜細亜の詩人」『日本詩人』新潮社、1926年5月号巻頭論文
  2. ^ 鵜飼大俊(1846-1878)は、野口の母の兄。釋大俊とも称される。愛知県稲沢市(旧片原一色村)生まれ。11歳で片原一色村善応寺説応の弟子となり、18歳で江戸に出、増上寺密雲学寮に入り、僧侶、漢詩人として知られる。1870年(明治3年)の雲井龍雄の事件に関与する。33歳急死の直前、一夜に300編の四行漢詩を書く。ヨネ・ノグチ著『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年 pp.188-193
  3. ^ 野口は、徒歩で前橋在住の長兄宅を訪問したが、長兄の方も野口を探しに東上しており行き違った。野口は東京に戻る。「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  4. ^ カーライル聴講は、1892年(明治25年)慶應義塾別科にて。「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  5. ^ この書を読みながらロンドンに憧れた。「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  6. ^ 秋の一夜、福澤諭吉の許に暇乞いに赴くと、福澤は自身の写真の裏に七言絶句を書いて野口に与えた。野口米次郎著『米次郎随筆』第一書房、1926年 p.17
  7. ^ 天長節の佳辰、すなわち吉日。三田商業研究會編『慶応義塾出身名流列傳』實業之世界社、1909年 p.494
  8. ^ わずか100ドルを持って出た。外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチの詩』造形美術協会出版局、1966年 p.27
  9. ^ 同11月に祐眞僧正が同寺の晋山式を済ませたばかりであった。「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.325
  10. ^ 日英米三国の詩人を糾合した。亀井俊介作「東京大學新聞評 外山卯三郎著 ヨネ・ノグチ研究」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 p.302
  11. ^ 新篇文学作品の寄稿を依頼した相手の人々は、岩野泡鳴、ロバート・ローレンス・ビニョン、ローレンス・ハウスマン、土井晩翠トーマス・ハーディ、チャールス・ウァレン・スタダード、ルイス・モーリス卿、ルイス・イモージーン・グイネー、小山内薫、ホアキン・ミラー、蒲原有明河井酔茗高安月郊、ダスタン男爵夫人、上田敏ウィリアム・バトラー・イェイツ、メアリー・マクニール・フェノロサ、前田林外、ウィリアム・ブリス・カーマン、フランク・ブトナム、児玉花外、イーディス・エム・トーマス、山本露葉、アルフレッド・オースティン、アーサー・シモンズ、サザーランド侯爵夫人、ジョセフィン・プレストン・ピーボディ、ジョン・ピー・タッブ、メーネル夫人、平木白星、薄田泣菫ら。外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチの詩』造形美術協会出版局、1966年 p.79
  12. ^ 円覚寺境内にある塔頭の一つ。別称を亀寺という。ヨネ・ノグチ著『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年 p.207
  13. ^ 西洋詩の「理知」に対抗する東洋的「暗示」を説いた。亀井俊介作「東京大學新聞評 外山卯三郎著 ヨネ・ノグチ研究」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 pp.302-303
  14. ^ 個人の嗜好を問われ、「歩くこと」と答えたところ、英国版紳士録の履歴にそのまま記載された。野口米次郎著『米次郎随筆』第一書房、1926年 pp.4-5
  15. ^ 帰国前に野口は鷲津尺魔、翁久允らを伴いミラー山荘を再訪し、故ミラーの妻、娘と再会を果たした。ヨネ・ノグチ著『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年 pp.84-86
  16. ^ 5月11日、中央亭において開催された会合における演説の中で、野口は、該当号読後の感謝と不満とを併せて表明した。不満は、各執筆者による野口論から、悉く退屈、義務的態度が看取された点にあった。外山卯三郎作「萩原朔太郎の見た詩人野口米次郎」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 pp.97-98
  17. ^ この頃、雑誌『日本詩人』の編集は、佐藤惣之助による。長沼重隆作「野口さんのこと」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 p.162
  18. ^ 1933年にタゴールからの講演依頼があったものを、翁久允が野口に伝えた。翁久允作「ヨネ・ノグチの思出」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 pp.185-187
  19. ^ なお、「タゴールへの公開状」「四度びタゴールに與ふ」と併せて『强い力弱い力』(1939)に収録。さらに「タゴールへの公開状」「タゴールに與ふ」と併せて『想思殿』(1943)に収める。「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.332
  20. ^ タゴールとは意見に相違があり、野口は讀賣新聞紙上で、タゴールはインドの新聞紙上で対立的論戦を行っていた。翁久允作「ヨネ・ノグチの思出」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 p.187
  21. ^ 豊岡村長飯田憲之助の離家を拝借。この家にて死去する。外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.308
  22. ^ 両親への献呈。また、野口寧齋による七言律詩が序として付けられている。
  23. ^ 実業家であった日向輝武への献呈。
  24. ^ 自著The spirit of Japanese poetry (1914)の翻訳。野口と加藤朝鳥との共訳。
  25. ^ 内田魯庵への献呈。1919年には岩波書店。1932-1933年、1934年には誠文堂。春信、北齋、寫樂、清長、歌麿、廣重の6人。1934年には誠文堂より各人あて6冊を漆箱に納めて出版。なお、初版復刻で『六大浮世繪師』岩波書店、2001年
  26. ^ Horace Traubelによる序文あり。
  27. ^ 二重國籍者の詩第二集。森田恒友による装幀。
  28. ^ 岩野泡鳴への献呈。
  29. ^ 副題は、感想集。恩地孝四郎による装幀。
  30. ^ 野口による編著。
  31. ^ 1931年には私家版、1932年には誠文堂。
  32. ^ 初版は第一書房。復刻で『印度は語る』ゆまに書房「文化人の見た近代アジア」、2002年
  33. ^ 百田宗治編。
  34. ^ 川端龍子による装幀。
  35. ^ 副題は、美術論集。
  36. ^ 副題は、自選詩集。
  37. ^ 初版は牧書房。復刻で『傳統について』大空社「叢書日本人論」、1997年
  38. ^ 副題は、文藝論集。
  39. ^ 副題は、随想集。
  40. ^ ネリー・イ・エヌ・スミスへの献呈。チャールス・ウァレン・スタダード博士による序文、ウィリアム・キースによる挿絵あり。外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチの詩』造形美術協会出版局、1966年 p.31
  41. ^ 新渡戸稲造による序文あり。
  42. ^ 別題:御小間使朝顔孃の書簡。
  43. ^ Joaquin Miller(ホアキン・ミラー)と共著。幸田露伴が1904年(明治37年)9月17日、18日の讀賣新聞に載せた「野口米氏に寄す」という21連の長詩を序文として再録。外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 pp.15-24
  44. ^ 一時期、レオニー・ギルモアが、八雲の長男一雄の家庭教師をしていた。
  45. ^ 画家牧野義雄による挿絵。
  46. ^ 英国の詩人、作家、批評家であるEdmund Gosse(エドマンド・ゴス)への献呈。
  47. ^ ウィリアム・バトラー・イェイツへの献呈。
  48. ^ 別の表題表記は、哥麿。
  49. ^ 蕗谷虹児による挿絵・装幀。
  50. ^ ウォルター・シェラード・ヴァインズ(1890–1974)。イギリスの作家、教師。来日し、1923年から1928年まで5年間慶應義塾で英文学教授として教鞭を執る。Sherard Vines:wiki en version 2020.6.13閲覧
  51. ^ The Poet Yone Noguchi (1925)の翻訳出版。

出典編集

  1. ^ 「年譜 野口米次郎」ヨネ・ノグチ著『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年 pp.267-271
  2. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  3. ^ 「野口米次郎年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.96
  4. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  5. ^ ヨネ・ノグチ著『ヨネ・ノグチ物語 野口米次郎自伝』伊藤精二訳、文化書房博文社、2015年 p.18
  6. ^ 三田商業研究會編『慶応義塾出身名流列傳』實業之世界社、1909年 p.494
  7. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  8. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  9. ^ 「野口米次郎年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.96
  10. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  11. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  12. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.323
  13. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.324
  14. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.324
  15. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.324
  16. ^ 「野口米次郎年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.97
  17. ^ 「野口米次郎年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.97
  18. ^ 外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチの詩』造形美術協会出版局、1966年 p.32
  19. ^ 「野口米次郎年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.97
  20. ^ Yone Noguchi:wiki en version 2020.6.10閲覧
  21. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.326
  22. ^ 外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチの詩』造形美術協会出版局、1966年 p.150
  23. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.330
  24. ^ 「佐藤惣之助年譜」『日本詩人全集12 野口米次郎、川路柳虹、千家元麿、佐藤惣之助』新潮社、1969年 p.349
  25. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.331
  26. ^ 外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究 第二集』造形美術協会出版局、1965年 巻頭写真(3)
  27. ^ 「ヨネ・ノグチの年譜」外山卯三郎編著『詩人ヨネ・ノグチ研究』造形美術協会出版局、1963年 p.333

参考文献編集

  • 『野口米次郎 日本詩人全集第12巻』 新潮社 1969年
  • 堀まどか『「二重国籍」詩人 野口米次郎』名古屋大学出版会 2012年

関連項目編集

外部リンク編集