野村 昊(のむら ひろし[1]1897年 - 1984年[1])は、日本の撮影技師である。松竹キネマ(現在の松竹)を代表する映画カメラマンである[1]

のむら ひろし
野村 昊
生年月日 1897年
没年月日 1984年
職業 撮影技師
ジャンル サイレント映画
活動期間 1920年 - 1946年
活動内容 1920年 松竹蒲田撮影所入社
1921年 撮影技師デビュー
1936年 松竹大船撮影所異動
1942年 満洲映画協会
1946年 松竹大船撮影所退社・引退
主な作品
極光の彼方へ[1]
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人物・来歴 編集

1897年(明治30年)に生まれる[1]

写真館に就職し、写真術を学ぶ[1]。満23歳を迎える1920年(大正9年)、水谷文二郎とともに同年設立された松竹キネマに入社、松竹蒲田撮影所に所属する[1]。1921年(大正10年)2月28日に公開された関根達発主演、田中欽之監督の『親なき娘』でデビューした[2]。同年の田中欽之・近藤伊与吉共同監督による『極光の彼方へ』は、同撮影所の後輩技師・三浦光雄が「豊麗な画調」と評した[1]

1936年(昭和11年)、撮影所の大船移転に際し、松竹大船撮影所に異動した[1][2]。大船第1作は清水宏監督の『感情山脈』である[2]。トーキー以降は、佐々木康の専属カメラマン化した[1]。1942年(昭和17年)には、佐々木とともに満洲映画協会に赴き、李香蘭(のちの山口淑子)を主演に『迎春花』の撮影を行っている[3]

1946年(昭和21年)、大船撮影所を退社、満50歳を目前に映画界から引退した[1]

1984年(昭和59年)、死去した[1]。満86-87歳没(享年88)。

おもなフィルモグラフィ 編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l シリーズ・日本の撮影監督 2東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月1日閲覧。
  2. ^ a b c 野村昊、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。
  3. ^ 迎春花、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。

外部リンク 編集