金 弘壹(キム・ホンイル、김홍일1898年9月23日 - 1980年8月8日)は大韓民国軍人外交官政治家。乳名は金弘日(キム・ホンイル、김홍일)。別名は崔世平(チェ・セピョン、최세평)。中国名は王雄王逸曙王復高本貫金海金氏は逸曙(일서)。金弘一金弘壱金弘逸とも表記される。甥に金英哉がいる。

金弘壹
Kim Hong-il 1961-may-20.jpg
外務部長官(1961年5月20日)
渾名 五星将軍
生誕 1898年9月23日
Flag of Korea (1899).svg 大韓帝国平安北道龍川郡
死没 (1980-08-08) 1980年8月8日(81歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル
所属組織 独立軍
Flag of the Republic of China Army.svg 国民革命軍
Flag of Korea (1882–1910).svg 韓国光復軍
Flag of the Republic of Korea Army.svg 大韓民国陸軍
軍歴 1925-1948(中国軍)
1945(光復軍)
1948-1951(韓国陸軍)
最終階級 Lieutenant General rank insignia (ROC, NRA).jpg 中将(中国軍)[1][注釈 1]
한국 광복군 참장 계급장.PNG 参将(光復軍)[2]
중장.JPG 中将(韓国陸軍)
除隊後 外交官、国会議員
墓所 国立ソウル顕忠院国家有功者第2墓域[3]
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金弘壹
各種表記
ハングル 김홍일
発音: キム・ホンイル
ローマ字 Kim Hong-il
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日韓併合時、中国に亡命して大韓民国臨時政府に属した独立運動家の一人。大韓民国成立後は韓国陸軍に入隊し、朝鮮戦争初期の遅延戦において重要な働きをした[4]朴正煕政権時代は反対派野党の精神的支柱として重きを為した[5]

生涯編集

大陸での活動編集

1898年9月23日、平安北道龍川郡楊下面五松洞に金振健(キム・チンゴン、김진건)の三男として生まれる。父が運営していた私塾「楓谷齋」で小学生課程を終える。中国に渡り、瀋陽の小西辺門外両等学校高等科に入学するが、差別によって一学期だけ終えて帰国した。

1918年春、独立運動家の曺晩植が校長であった五山学校を首席で卒業[6][7]。卒業後、李昇薫の推薦で黄海道新学校の教師となるが、抗日活動で警察に逮捕される[8]。出獄後、兄の金弘翊や五山学校で同窓だった金承倜の助けを借り、1918年9月に上海に亡命[6][9]。1918年12月、韓国臨時政府と中国人の知人の助けを借りて貴州陸軍講武学校第2期に特別入学[10]

貴州陸軍講武学校[11]歩兵科と貴州陸軍実施学校山砲兵科を卒業[5]。貴州黔軍総司令部(司令:王文華)特務大隊排長、副官などを歴任[12]。1920年、第2次護法戦争に機関銃小隊長として参加[13]。貴州軍内部の政治的対立が激化すると軍を去った[14]

1920年12月に貴州を離れ、臨時政府を訪れる。そこで盧伯麟軍務総長の指示に従い、1921年3月に上海を発ち長白市に残留していた255人からなる軍備団を説得して引率し、ソ連の遠東革命軍[注釈 2]と合流するためにイマンへ向かった。

5月10日にイマンへ到着し6月2日に自由市を訪れ柳東悦から大韓独立軍団の状況を聞いた。大韓独立軍団は内部統一さえできておらず、各団体の意見を調整することは不可能であり、統一された軍隊に仕上げられる見込みがないと知らされ、金弘壹はひどく落胆した。柳東悦に「イマンに戻って様子を見たほうがいい」と言われ金弘壹はイマンに戻った。

イマンに戻ると6月26日に韓人団体の間で主導権を巡って武力衝突が起こり、大韓独立軍団は壊滅的打撃を受けた(自由市惨変。その後、イマンに逃れてきた張基永、李鏞、韓雲用やサハリン部隊の朴イリア(朴エルリア)らと共に韓国義勇軍軍事委員会を新設し、義勇軍司令部を設立した[15]。3個中隊が編成され、司令官に李鏞朝鮮語版、第1中隊長兼参謀に林彪、第2中隊長に韓雲用、第3中隊長に金弘壹が就いた[16]。また6か月課程の士官学校(校長:李鏞、教育長:韓雲用)が設立され、学徒隊長に就任[16]。この時、金弘壹が所有していた中国軍官学校の教材がそのまま士官学校で使われた[16]

韓国義勇軍は極東共和国軍に合流して、白軍との戦闘に参加した[16]。1922年2月以降、韓国義勇軍は独立歩兵大隊(大隊長:李鏞)としてハバロフスク周辺の警備を任され、金弘壹はこの部隊の副大隊長となった[17]。やがて李鏞などの幹部が去ると、金弘壹が代わりに部隊を指揮するようになった[17]

1922年5月、極東共和国によって部隊が解体されると中国領に戻り、黄公三、宋子賢、李英伯などと中学校を設立。1923年9月に中学校が開校し、金弘壹は中国語、数学、体育を教えた[18]。1924年、敦化の会合で、韓国義勇軍軍事委員会を復活させることが決定され、日本の捜査当局にあまり顔を知られていない金弘壹が間島龍井に派遣された[18]。崔世平の名で龍井の明東中学校で数学と体育を教えながら、青年組織を引き受けた[19][20][21]。教師として活動中に姓が崔の女性と付き合うようになる[22]。当時は同姓同本同士の結婚が許されていなかったので、村では大騒ぎとなり仕方なく本名を明かした[22]。やがて憲兵の捜査が及ぶと上海へと退避した[22]

中国軍での活動編集

北伐から日中戦争勃発前編集

1926年、国民革命軍に加わり、東路軍総指揮部(司令:何応欽少校参謀[1][23]中校科長。北伐に参加。営長、団長を歴任。1928年の第2次北伐では軍事委員会軍械処統計科長[24]

北伐後は呉淞要塞司令部参謀長を経て上海兵工廠軍械科長(兵器主任)[25]金九の要請で爆弾を製造し提供したこともあり桜田門事件で使用された手榴弾、上海天長節爆弾事件で使用された爆弾は金弘壹が金九に提供した物だった。

1931年に満州事変が起こると臨時稽査長を兼任して日本の動向を探った[26]

1932年、上海事変勃発により上海兵工廠が後方に疎開され、第19路軍後方諜報科長を兼任する[26][27]。フランス租界に滞在し金九、安昌浩らと連絡を取りながら朝鮮人を動員して日本軍の後方攪乱や情報収集を行った。そして虹口埠頭に接岸していた出雲に上海派遣司令部が同居していることを察知、出雲を爆破しようとしたが失敗に終わる。また金九と共に日本軍の飛行機格納庫と軍需倉庫の焼却を企て、時限式の焼夷弾を兵站機関に雇われている朝鮮人に仕掛けさせる計画を立てたが爆弾が出来上がる前に停戦となったので、計画は沙汰止みになった[28]

上海天長節爆弾事件により、日本の捜査が及ぶと王逸曙に改名して南京へ行き、城外にある工兵学校の副官処長となる[29]。その後も金九と密接に連絡していたが[30]、1935年9月頃に金九の専横を警告したことが原因で喧嘩となり、金九とは距離を置いたという[31]

1932年10月、朝鮮革命軍事政治幹部学校の設立を後援[32]

1933年2月、江西紅軍の囲剿に参加[1]。第2路軍総指揮部上校参謀、第2路軍第102師参謀主任を歴任[12]。剿共作戦を終えると軍需設計委員に任命[33]。軍需設計委員は、今後の戦争に備えてその準備作業を計画する役職であり、軍需署は東南臨海地域の軍需産業を西部内陸部に移転する計画を策定していた[34]

1934年から1938年まで中央陸軍軍官学校の教官を務める。1934年から洛陽分校韓人特別班に入校した朝鮮人生徒、1937年12月から星子県特別訓練班に入校した朝鮮民族革命党朝鮮語版の青年党員を育成した。これらの生徒は後に光復軍朝鮮義勇隊の中核要員となった[32]

1937年7月、廬山暑期訓練団に参加[35]。軍事組第1総隊第1大隊に配属され、7月5日から17日まで訓練を受けた[36]。また訓練を受ける他に経理処副処長を兼任し、訓練修了後もしばらくは経理処に残った[36]

日中戦争編集

1937年、支那事変が勃発。翌年夏、羅卓英によって第102師(師長:柏輝章中将)に派遣され、参謀主任に任じられる[37]。1938年の武漢会戦で第102師は南昌北方の徳安で第106師団と交戦し、大打撃を与えた[7]

1939年1月、東郷県で編成された教導隊(総隊長:陳偉光)主任を兼任しての骨幹人員を養成した[38]

日本語にも精通していたため、戦場で捕えた捕虜は金が尋問した[37]。1932年2月、捕虜にした日本航空隊の偵察員を尋問して得た情報は第2戦区司令長官部が参考にしていた[37]

1939年、第19集団軍(総司令:羅卓英中将)少將参謀処長に就任した[7]。第19集団軍は南昌西側の防備につき、南昌周辺を警備していた日本軍第34師団を悩ませた。1941年には錦江作戦に参戦した。錦江作戦初期は第19師師長代理を務めている[39]

1941年12月から1943年12月まで中国陸軍大学特別班第6期に在学[12]。同期には同じく朝鮮人の朴始昌、1期先輩に崔用徳がいた。

1944年春、中国青年軍中国語版編練総監部少將参謀処長[12][40]。参謀処長に韋鎮福が就任すると軍務処長[41]

1945年6月、中国軍を退官し光復軍総司令部参謀長を務める[8][42]。当時、光復軍は李青天の韓国独立党と金元鳳の朝鮮民族革命党に分かれ、対立していた。金弘壹は金元鳳派であったため、韓国独立党は金の参謀長任命に反対しており、就任後も解任を主張していた[43]。これに対して金元鳳は。金弘壹を解任したら光復軍内の民族革命党員をすべて退去させると勧告した[43]

金弘壹は蔣介石と交渉して光復軍に対する臨時政府の総帥権を確立。王耀武兵団長と合作して光復軍は第74軍と共に武漢奪還作戦に参加することを計画した。これによって対日参戦を具体化する目論見であった[44]

金九主席、金元鳳軍務部長、柳東悦参謀総長、李青天総司令官が収集され臨政軍事首脳会議が開かれ、実行の承認を求めたが「米軍と合作し日本軍の後方でゲリラ戦を展開したほうが効果的である」という意見が出て対立、最終的に承認されなかった。その後、日本降伏の報を聞き、金弘壹は臨時政府が連合国の一員として参戦することはできなかったと嘆き、そして朝鮮はこの先どうなるかと憂えている。

終戦後編集

終戦後は中国軍に復帰して1945年12月に東北保安司令長官部(司令長官:杜聿明)高級参謀兼韓僑事務処長[1][8]。東北韓僑の保護と朝鮮への帰国に尽力した[32]

東北部では丁一権などの元満州国軍将校が集まって新京保安司令部を創設して、軍人とその家族が四百人ほど残っていた。新京保安司令部の代表と面会した金は、満州は国府軍と中共軍の一大決戦場になるので軍事経歴を積んだ人達を犠牲にせず速やかに帰国しなさいと勧告した[45]

東北韓僑の「独立国家の友邦国民としての待遇」と「永住の許可」を目指して、様々な活動を展開し、司令長官の杜聿明に東北韓僑は絶対に強制送還をしない、私有財産を認定する、水田農民を保護する、韓国僑民会を設置する等を提案した[46]。また東北地区における移住の法的根拠をつくるために「韓僑処理弁法」を作成し、東北政務委員会に提出した[46]

東北の実力者である馮庸中国語版張作相の反対を受けたが、韓国に同情的な中国南部出身の一部の政務委員がこの法案に積極的に賛成したため、1946年4月に「韓僑処理臨時弁法」が成立した[46]。また東北韓僑事務処が設置され、金弘壹が処長に就任した[46]。しかし韓国臨時政府駐華代表団が金弘壹を強く警戒して国民政府に処長職の撤回を求めた[47]。これは駐華代表団を主導する韓国独立党と対立関係にある朝鮮民族革命党に金弘壹が所属していたからであった[47]。駐華代表団団長の朴賛翊は1946年12月3日に淞滬警備司令部宛に、金弘壹の行動は共産党と同様であるとの告発文を送った[47]。同年9月、韓僑処理は中国外交部駐東北特派員公署の管轄となり、金弘壹は南京に転任した[48]。共産主義者の疑いをかけられたが、1947年2月の東北保安司令長官部の調査で韓国独立党の報告は事実無根だと判断した[48]

1947年5月、国防部政治部専門委員[8]。1948年8月、蔣介石の手紙を携えて帰国[1][6][49]

帰国後編集

韓国軍入隊編集

 
陸士学校長時代

1948年12月、韓国陸軍入隊、任准将(軍番12329番)。

1949年、陸軍士官学校校長、任少将。「忠国愛民」を教育目標に定めて「国防訓練で国土統一」、「軍紀確立で思想統一」、「清廉潔白で士兵第一」の三大教育方針を制定して教育の指針とし、これを基に「忠・勇」を教訓とした[50]。それまで陸士には教訓が無かった[50]。また国史、英語、一般学、指揮法、行政学やサッカー、バスケットボール、ボクシングなどの体育科目を新たに導入して、強靭な体力と教養を備えた将校を養成しようとした[50]。さらに日本軍隊式教育から脱却して主体的な民族精神を志向するため、毎週月曜日に自ら直接実施した精神訓話教育は生徒達から大きな呼応を得た[50]。金弘壹は陸士の2年制教育課程を強く主張していた。既存の45日~6か月の短期課程では力量ある軍事幹部養成に不十分だと考え、教育期間を延長して様々な科目を深く教育しなければならないと主張した[50]

1950年6月、参謀学校校長。

朝鮮戦争勃発編集

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し翌26日午前、蔡秉徳参謀総長、申性模国防部長官は軍事経歴者緊急諮問会議を開き、柳東悦、李範奭池青天金錫源宋虎聲、金弘壹が召集される。会議は議政府方面の戦闘方針についてであった。蔡秉徳、申性模はソウル固守を唱えたが金弘壹は議政府の戦況を危ぶみ、戦争指導方針の確立を強調、漢江の線で戦うことを提案した[51][52]。これに李範、李青天、金錫源が同意したが[53]、蔡秉徳と申性模はソウル固守を変えなかった[51][52]

27日正午過ぎ、陸軍本部により戦略指導班長の職務で第1師団(師団長:白善燁大佐)を視察[54][55]。金弘壹は第1師団が健在で反撃の計画まで立てていることに驚いたが、議政府方面の戦況について説明し、漢江以南まで後退することを勧めた。しかし第1師団は陸軍本部から依然としてソウル西翼の死守を命じられており、金弘壹もそのような権限は無かった。そのため陸軍本部に戻り、蔡秉徳に第1師団の状況を伝え、同師団に後退命令を出すように進言したが命令は変更されなかった。

6月28日、李應俊と蔡秉徳で状況の収拾案を協議した結果、金弘壹は始興で部隊を収拾して漢江の防御を担当、李應俊は水原で部隊を収拾して前方に輸送支援することに決まった[56]。当時、韓国軍指導部は漢江線を防御するための体系的な対応策を講じておらず、戦争前に自然の障害物として遅滞戦闘に利用できると言及されただけで具体的な計画は無かった[57]。兵士たちは度重なる戦闘と撤退で疲労困憊であり、収拾された人員も1個連隊の実兵力が1個大隊にまで減少していた[57]。軍需面では、漢江橋の爆破によって師団の補給品を載せた1318台の車両全てが漢江以北に取り残され、北朝鮮の手に渡った[57]。このような悪条件の中で始興地区戦闘司令部(시흥지구전투사령부)の司令官となり、敗走する将兵を収拾して混成首都師団、混成第2師団、混成第7師団[注釈 3]を編成し、漢江を障害にして北朝鮮軍を阻止した。

金弘壹将軍は当時、ぞろぞろと退がってくる部隊を収容し、大隊に再編成して漢江南岸に配備していた。この必死の指導、困難な措置のお蔭で数日、まことに貴重な数日を稼ぐことができた。この金将軍の功績は、どんなに高く評価しても評価し過ぎることはないと思う[58] — 白善燁

7月3日、北朝鮮軍が漢江を渡河し、陸軍本部の命令で7月4日に安養で北朝鮮軍を阻止しようとするが、防衛部隊の実態は約8千人ほどで砲も重火器もなくわずか1日で水原は陥落する[59]。陸軍参謀総長となった丁一権は韓国軍を再編し、始興地区戦闘司令部は第1軍団となり、隷下に第1師団(師団長:白善燁大佐)、第2師団(師団長:李翰林大佐)、首都師団(師団長:李俊植准将[注釈 4])であった。金弘壹は引き続き軍団長を務め、洛東江までの後退戦を指揮した。

7月の後退戦編集

7月6日夕方、陸軍本部の命令によって第1軍団は第1師団を陰城、首都師団を鎮川に急派し、第2師団を予備に控置した。首都師団と第1師団は北朝鮮軍と交戦したが、左翼のアメリカ軍が撃退されたため第1軍団は首都師団に後退、第1師団に敵を遅滞させながら槐山を経て米院方面に後退するように命じた。7月10日、敵と交戦していた第1師団、首都師団は撤収した。その後、第1師団は度々待ち伏せで敵を撃退した。

7月11日、首都師団は第18連隊を美湖川南岸に残置して主力は清州に後退した。夜に第1軍団の作戦会議が開かれ、軍団司令部を報恩に下げ、首都師団をもって清州南側の高地帯を防御させ、第2師団をもって鳥致院方面に備えることになった。遅滞戦闘を続けていた第1師団には、なるべく槐山を長く確保した後、米院に後退するように指導した。

7月13日、第1軍団は清州北方まで迫った北朝鮮第2師団に軍団砲兵[注釈 5]の集中射撃をした。北朝鮮第2師団は約800人の死傷者を出したが南下を続け、首都師団と交戦した。7月16日に左翼のアメリカ第24師団が撃退されたため、首都師団に報恩付近への後退を命じた。

7月17日、第1軍団と第6師団の間隙を突いて北朝鮮第15師団が尚州に向けて南下していたため陸軍本部の命令により第1軍団は第17連隊を化寧場に急派して南下する第15師団を阻止し、首都師団を東部方面の安東に転進させた。さらに第1師団を報恩‐尚州正面、第2師団を報恩‐黄澗道正面の遅滞を命じた。

7月末、第1軍団司令部は東部に移動し、再編成により隷下部隊は第8師団(師団長:李成佳大佐)、首都師団(師団長:金錫源准将)となった。

釜山橋頭堡の戦い編集

8月1日の安東撤収作戦で大損害を受けた。

8月中旬、杞渓・安康の戦いで北朝鮮第12師団を殲滅した。その後の慶州の戦いでは再編された第12師団に苦戦し、27日に再び杞渓を占領された。

9月1日、軍団長を解任され陸軍綜合学校校長となる。理由は慶州方面に投入されたジャクソン支隊(Task Force Jackson)を指揮していたジョン・コールター少将の前進命令を受けたが、命令を聞かず部隊を動かさないので、アメリカ軍に指揮官の交代を要請されたためであるという[60][61]。第3師団長の金錫源も一緒に解任されており、2人とも韓国軍内でも数少ない正規戦闘の経験がある指揮官であったため、この人事は当時でも疑問視され、国会では派閥による人事措置と批判された[62]。これに対して申性模は、第8軍司令官ウォーカー中将の建議を受け入れたためだと明かし、ムチオ大使はこの状況をアメリカ国防省に報告した[62]。金錫源は、このことについて『老兵の恨』で「金弘壱少将を後方に配置し、金白一准将が軍団長になったのには、唖然失色せざるを得なかった。いくら好意的に解釈しようとしても判断に苦しむ処置であった。」と書いている[63]

1951年3月、任中将、予備役編入。

退役後編集

 
李承晩の台湾訪問時(1953年11月27日)。左から蔣介石、金弘壹、李承晩
 
西ドイツ訪問時(1970年11月10日)。右から2番目の人物が金弘壹

1951年10月、李範奭の推薦で駐中華民国大使に任命[64]。反共外交強化に尽力した[65]。駐韓国大使の邵毓麟と協力して1953年に李承晩の台北訪問を実現させた[66]

1960年、帰国。1961年、5・16軍事クーデターが起こると外務部長官に就任。対米関係正常化に努めたが軍事政権と足並が揃わず外務部長官を退いた[67]。同年12月、在郷軍人会会長。

政権民間移譲を要求していたが、1963年に朴正熙が大統領選挙出馬を決めると韓国独立党を結成して対抗した[68]

1965年7月14日、金在春朝鮮語版朴炳権、朴圓彬、白善鎮宋堯讃孫元一張徳昌李澔曺興萬朝鮮語版崔慶禄ら予備役将軍と共に日韓協定の反対声明を発表[69]。デモによって学生と軍が衝突する中、8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表[70]。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した[70]。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた[70]。同年8月に、大統領に対する名誉棄損で起訴されたが釈放される。獄中では急性虫垂炎にかかり、危うく死にかける状態であった[71]

1967年、新民党候補としてソウル麻浦区で第7代国会議員に当選。1970年1月の党大会では非主流派の支持を受け議長に選ばれた[67]。同年7月にベトナム、タイ、カンボジアの軍事・経済を視察する。同年10月、西ドイツ下院議長の招請によりドイツに訪問。

1971年5月、珍山波動では新民党党首権限代行に推戴[71]。同年、第8代国会議員に再選して新民党党首。1973年1月、新民党を離党して民主統一党常任顧問。

1977年5月、光復会会長。朴正熙から支援金5億ウォンを引き出し光復会館を設立[72]。このような業績から会員の支持を受け、1979年6月、第7代会長に推戴され、全羅南道支部、全羅北道支部を増設するなど活躍した[72]。任期中の1980年8月に死去[73]。当初は社会葬で行われる予定であったが、遺族が金の質素な生活観を尊重したため家族葬で執り行われた[74]。葬儀には崔侊洙朝鮮語版秘書室長、全斗煥国防常任委員長、ジョン・A・ウィッカム在韓国連軍司令官、李甲成朝鮮語版など約1500人が参加した[74]

1985年10月、KBSで金の生涯を描いた特別企画ドラマとして「五星将軍金弘壹」が放送される[75]

1999年8月、大韓民国国家報勲処が8月の「今月の独立運動家」に選定。

2000年7月、戦争記念館が「7月の護国人物」に選定[76]

2015年1月、大韓民国国家報勲処が「1月の6・25戦争英雄」に選定[77]

2018年1月、母校である五山高等学校に胸像が建てられる[78]

2020年6月6日、文在寅大統領は大田顕忠院で行われた追悼式で金弘壹に言及した[79]

2020年8月、戦争記念館が「8月の護国人物」に選定[80]

逸話編集

  • 1951年、李承晩は金弘壹を中華民国大使に任命した際、「金将軍が軍人として我が国に寄与した功績を思えば五星将軍(元帥)で除隊させなければならないのに、我が軍にそのような制度は無い。しかし金将軍は我が軍の三星(中将)に中国軍の二星を加えれば五星将軍になる」と言った[6]。そのため金弘壹は五星将軍と呼ばれるようになった。
  • 韓国軍創設時、既に少数派であった中国系軍人[注釈 6]で、さらに朝鮮戦争時に上級指揮官として活躍した数少ない人物であった[5]。また大軍の運用と国家の防衛施策に関与した経験を持ち[7]、師団以上の戦力を指揮した経験がある唯一の軍人であった[9]アメリカ軍政庁は、日本軍の中で最も階級が高く戦犯として処刑された洪思翊将軍と同等に見ていた[81]。丁一権は「当時はその戦歴、識見、人物、ともナンバーワンであった」と述べている[82]。白善燁によれば、人望とリーダーシップが群を抜いていて、彼に従う軍の後輩が多かったという[4]
  • 金雄洙朝鮮語版は、陸士校長時代の金弘壹について「人格を備えた指導者の下で軍隊生活をすることができ、やりがいを感じた」、漢江防御戦について「漢江線で国軍が6日間の遅延作戦を成功させることができたのは、金弘壹将軍の愛国心と適切な判断、指揮力に起因したことが大きいと私は考えている」「今、漢江辺に金弘壹将軍と祖国の危機に命を捧げた無名の学徒兵を称える像が除幕されることを願っている」、安東撤収作戦については「軍団長に作戦の道義的責任があることを指摘し、辞意を表明することを提案した」と回顧録に記述している[83]
  • 駐韓軍事顧問団英語版団長のロバーツがチャールズ・ボルト英語版に送った手紙には「中国出身将軍の中で最良の人は金弘壹少将で韓国陸軍士官学校校長。約50歳であり、小意気、誠実、学者で、そしてアメリカ化されてきている。」と書かれている[84]
  • 朝鮮戦争期の韓国軍指揮官の中で、その役割と成果に比べて最も過小評価された人物の1人として挙げられる[85]
  • 金點坤によれば「作戦はうまいわけではないが後退の仕方を知っていた。中国軍でいつも後退ばかりしていたから、これは非常にうまい」という[86]
  • 隷下の金錫源とは、所属していた軍隊[注釈 7]や作戦指導の違いから折り合いが悪かった。

鎮川の戦いでは、首都師団から全く報告が無く心配で3回ほど督戦に行ったという。またある将軍の証言によれば、「あれでは大隊長は勤まっても、師団長は勤まらない。すぐ替えろ」とまで漏らしていたという[87]

8月7日に金錫源は首都師団長を解任され、第3師団長に転補した[88]安東撤収作戦で大損害を受けたことが原因だと言われているが、金弘壹によれば、軍団の命令を聞かず青松地区で奇襲を受けたことから全く意思の疎通ができず行末も案じられたので、この際思い切って師団長の更迭を上申したという[89]。なお後任には「首都師団長という名に相応しい人、勇敢な人、言うことを聞いてくれる人」という3つの条件をつけた[89]

ある時、軍団司令部で申性模長官と金錫源将軍の「やはり日本の軍隊を連れてこなければならない」と言う話を偶然聞いて「何の話をする!」と怒鳴ったという[90]

  • 1950年7月24日、韓国第1師団は25日朝にアメリカ第25師団第24連隊に任務を委譲し、尚州に集結して再編成したのち咸昌に向かえという命令がきたが、第24連隊は指定の時刻が来ても現れない。堪りかねた白善燁は金弘壹に「指定の時刻に来ないのは向こうが悪い。所命のように早く行きましょう」と具申した。ところが金弘壹は「今は連合作戦を実施中で、こちらは助けられる立場、向こうは助ける立場にある。だから、信義が何より大切だ。何かの都合で遅れているのであろう。私が尚州に行って督促する。それまで我慢して、後退した後に尚州に下がった方が良い。もし空っぽのところを衝かれ、尚州を奪われでもしたら大変なことになる」と諭したそうである[91]。しかし白善燁はその著作『韓国戦争一千日』に金弘壹が「来ないのは向こうが悪いのだから、早く下がれ」と督促にきた、と記してある[92]
  • 中国軍および光復軍出身の金弘壹と日本陸士出身の李應俊は、その出身とは別に親しい関係だったと見られ、1976年の対談では李が「満州国軍、中国軍出身そして日本軍出身に兪海濬李成佳さんのような光復軍出身も大挙として新しい祖国の旗の下に集まって来る」と言ったのに対し、金は「あの時の素晴らしい光景は出身も別々だった人達がお互いに推薦し、薦挙する姿だ」と李に共感した[93]。また五山学校の後輩で駐越韓国軍司令部作戦参謀を務めた全濟鉉(전제현)予備役少将は、中国に渡った金弘壹の手紙を亡命から3か月ぶりに国内の家族に初めて伝達したのが李應俊だと証言している[93]
  • 白善燁によれば、曺晩植は生前に「中国軍には王逸曙という有名な朝鮮人将帥がいる」と話していたという[4]
  • 1970年代、佐々木春隆は朝鮮戦争史の研究のため、しばしば韓国に訪れ、資料の収集や戦跡の調査、関係者の聞き込みなどを行っていた。その一人に金弘壹もいたが、佐々木は日中戦争で第40師団に所属しており、金とも交戦した関係だという[94]。そのため当初は言いづらかったそうだが、その事が話題になると、お互いに苦労した仲であるという共感を得られたのか、昔を懐かしむ面持ちになり、急に打ち解けられた様子だったという[94]。また金から受けたある種のさわやかな感動は、佐々木に修練の必要を感じさせた[94]
  • 1981年、台湾を訪問した朴定仁に、何應欽は「金弘壹将軍は非常に優秀な人でした。私は彼が青年将校の時から育ってくれるように非常に努力した」と語った[95]

年譜編集

  • 1919年 - 貴州陸軍講武学校第2期歩兵科卒業
  • 1920年 - 貴州陸軍実施学校砲兵科卒業、貴州黔軍総司令部特務大隊排長
  • 1926年 - 国民革命軍東路軍総指揮部参謀
  • 1928年 - 軍事委員会軍械処統計科長
  • 1931年 - 上海兵工廠軍械科長
  • 1932年 - 第19路軍後方諜報科長
  • 1933年
    • 2月 - 第2路軍総指揮部参謀
    • 8月17日 - 陸軍工兵学校副官[96](~1934年7月26日[97]
    • 8月18日 - 中校[98]
  • 1936年 - 軍政部軍需署軍需設計委員会専任委員
  • 1937年
    • 2月22日 - 陸軍歩兵中校[99]
    • 7月 - 廬山暑期訓練団入団
  • 1938年
    • 1月 - 中央陸軍軍官学校特別班軍事教官
    • 夏 - 第102師参謀主任
  • 1939年 - 第19集団軍参謀処長
  • 1940年7月19日 - 陸軍歩兵上校[100]
  • 1942年1月 - 中国陸軍大学特別班第6期入校
  • 1943年12月 - 中国陸軍大学特別班第6期卒業
  • 1944年
    • 同年 - 全国知識青年従軍編練総監部参謀処長(少将)
    • 6月1日 - 韓国臨時政府軍務部次長[101]
  • 1945年
    • 6月1日 - 光復軍総司令部参謀長[102]
    • 12月 - 東北保安司令長官部高級参謀兼韓僑事務処長
  • 1947年5月 - 国防部政治部専門委員
  • 1948年
    • 7月 - 国民政府国防部部附[12] 陸軍中將
    • 8月 - 帰国
    • 12月 - 韓国陸軍特任入隊、准将任官(軍番12329番)
  • 1949年
    • 1月15日 - 陸軍士官学校校長
    • 2月1日 - 少将[103]
  • 1950年
    • 2月24日 - 陸軍参謀学校高位幹部課程修了[104]
    • 6月10日 - 陸軍参謀学校校長
    • 6月28日 - 始興地区戦闘司令部司令官
    • 7月5日 - 第1軍団長
    • 9月1日 - 陸軍綜合学校校長
  • 1951年
    • 3月 - 予備役編入
    • 3月15日 - 大韓傷痍軍人会設立準備委員会委員長[105]
    • 10月 - 駐中華民国大使
  • 1960年7月 - 参議員(ソウル特別市、無所属)落選
  • 1961年
    • 同年 - 軍事革命委員顧問
    • 5月 - 外務部長官
    • 12月 - 在郷軍人会会長
  • 1963年
  • 1964年 - 北朝鮮解放統一促進会会長
  • 1965年2月26日 - 星友倶楽部代表指導員(~7月1日)[106]
  • 1966年12月 - 野党大統領候補単一化推進委員会実行委員
  • 1967年
    • 4月 - 新民党ソウル麻浦地区委員長
    • 6月 - 第7代国会議員(ソウル麻浦区、新民党)当選
    • 10月 - 国会国防委員会委員
    • 11月 - 新民党政策委員会外務・国防文科委員
  • 1968年
    • 4月 - 新民党ソウル麻浦地区党委員長
    • 6月 - 新民党指導委員、中央党紀委員長
  • 1969年
    • 5月 - 国土統一諮問委員会委員
    • 11月 - 国会国防委員会委員
  • 1970年1月 - 新民党政務委員、全党大会議長
  • 1971年
    • 5月 - 新民党党首権限代行、親民党選挙対策本部長、第8代国会議員(全国区、親民党)再選
    • 7月 - 新民党党首、国会外務委員会委員
    • 8月 - 新民党政務会議議長
  • 1973年1月 - 民主統一党常任顧問
  • 1974年
    • 11月 - 民主回復国民会議七人委員会委員
    • 12月 - 同会議顧問
  • 1976年5月 - 中華学術院名誉哲学博士
  • 1977年5月 - 光復会会長

勲章編集

著書編集

  • 回顧録
    • 『大陸의憤怒:老兵의回想記』 文潮社、1972年
  • 論文
    • 『国防槪論』 高麗書籍株式會社、1949年
    • 군대정신교육
  • 編纂
    • 四月攻勢敵情彙編』 第九戰區前敵總司令部參謀處、1939年8月[注釈 8]
    • 長沙會戰:贛北敵情紀實』 第九戰區前敵總司令部參謀處、1940年

親族編集

  • 父 金振健(김진건、不明 - 1918年、平安北道龍川郡の富農)
  • 妻 閔景蘭(민경란、不明 - 1991年、3・1女性同志会会長、独立記念館理事)
    • 長男 金克哉(김극재
    • 次男 金勇哉(김용재、国民政府軍事委員会文書役員[112]、韓国空軍少佐、1960年1月甲種二等懋績獎章授与[113]、香港の事業家[67]、白凡記念事業会理事)
    • 三男 金徳哉(김덕재、米国在住)
  • 兄 金弘翊(김홍익、金振健の長男)
  • 金英哉

注釈編集

  1. ^ 他の文献では少将としている。
  2. ^ 日、中、韓、蒙古人から成る対日国際軍。
  3. ^ 混成師団は、師団と名前はついているが、兵力は連隊規模で保有している重火器も迫撃砲が2~3門、機関銃5~6挺に過ぎず、実態は小規模小銃部隊であった。
  4. ^ 7月6日に首都師団長は金錫源准将となり李俊植は第3師団長に転補した。
  5. ^ M2型105ミリ榴弾砲5門と迫撃砲。
  6. ^ 韓国光復軍、国民革命軍、汪精衛軍出身者。
  7. ^ 金弘壹は中国軍、金錫源は日本軍。
  8. ^ 譯者の1人(他は胡作健、張創藝、張宏英、呉歩月)として携わった。

出典編集

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  113. ^ “空軍總司令陳嘉尚頒勳給韓國空軍金勇哉少校”. 中央通訊社影像空間. https://www.phototaiwan.com/Query/PhotoDetails.aspx?IMG_ID=19610124007500&IMG_SUB_ID=196101240075000001&page=1 2017年9月19日閲覧。 

参考文献編集

外部リンク編集

軍職
先代
崔徳新
  大韓民国陸軍士官学校校長
第7代:1949.1.15 - 1950.6.10
次代
李俊植
先代
-
  大韓民国陸軍第1軍団長
初代:1950.7.5 - 1950.9.1
次代
金白一
先代
李俊植
(陸軍諸兵学校校長)
  大韓民国陸軍綜合学校校長
第4代:1950.9.1 - 1951.3.17
次代
李鍾賛
外交職
先代
李範奭
 中華民国大韓民国大使
第3代:1951.10 - 1960.6
次代
白善燁
公職
先代
鄭一亨
  大韓民国外務部長官
第7代:1961.5.21 - 1961.7.21
次代
宋堯讃
先代
李亨根
  大韓民国在郷軍人会会長
第9代:1961.12.12 - 1962.7.17
次代
金聖恩
先代
柳珍山
  新民党党首
1971 - 1972
次代
柳珍山