金森 長光(かなもり ながみつ)は、美濃上有知藩の第2代(最後)の藩主。

 
金森 長光
時代 江戸時代前期
生誕 慶長10年(1605年
死没 慶長16年10月6日1611年11月10日
改名 五郎八(幼名)→長光
戒名 繍雲院殿揺室宗玉大居士
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺龍源院
幕府 江戸幕府
美濃上有知藩
氏族 金森氏
父母 父:金森長近、母:久昌院
兄弟 長則長光
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生涯編集

慶長10年(1605年)、金森長近82歳の時、その次男として生まれる。ただし長近には他家に養子に出た庶子の 伊東治明がいるため実際には三男。

長兄の長則天正10年(1582年)の本能寺の変二条城において織田信忠に殉じていたため、跡継ぎの実子がいない長近は養子として可重を迎えていた。慶長10年に金森家の家督飛騨一国可重に相続された。可重に本拠の飛騨高山城を譲り、80歳を越えた長近は関ヶ原の合戦の戦功により加増された美濃国武儀郡上有知[1]の領地に移り、同地の鉈尾山城に入った。後に新城(小倉山城)を築いてそちらに移った。同年に長光が産まれている。幼名の「五郎八」は長近の幼名と同じである。

慶長13年(1608年)に長近が死去すると、数えで4歳の長光は上有知・関の18000石と河内国金田(かなた=現・大阪府堺市金岡町)3000石を相続した。

しかし慶長16年(1611年)10月6日(異説として8月23日)に夭逝する。享年7歳。当然ながら継嗣はいないため、上有知藩の金森家は無嗣断絶で改易となり領地は江戸の幕府に没収された。ただし河内国金田の領地は母の久昌院が相続することになり、寛永2年(1625年)に亡くなるまで、久昌院の知行地であった。[2]

これとは別に、上有知藩の知行地のうち、長光家臣の島三安肥田忠親[3]池田政長[4]ら三人は、長近と家康の約束により、遺領から各1000石が宛てがわれ、旗本として幕府に召し出された。このうち池田氏のみが明治維新まで旗本として存続した。[5][6]

脚注編集

  1. ^ 関ヶ原の合戦以前に武儀郡鉈尾山城を支配していたのは佐藤方政。佐藤は西軍に付いたため改易。方政の母は長近の姉。
  2. ^ 『堺市史 近世編』
  3. ^ 肥田主水。肥田忠政の子。肥田忠政の妻は長近の娘であり、忠政の死去時にまだ幼かった忠親は長近に引き取られて養育され、のち長近が忠親を徳川家康に拝謁させた。
  4. ^ 池田図書。祖父は出羽の人。元は大塚姓で、母方の池田姓を名乗る。長近の家臣で上有知藩家老。旗本となってのち将軍上洛に供奉し、また幕府御使番を勤める。1632年7月13日死去。
  5. ^ 『岐阜県史通史編 近世上』 岐阜県、1968年、536頁
  6. ^ 現在の東京都千代田区神田駿河台の「池田坂」(唐犬坂)にその名を残す。

関連項目編集