金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。

経歴 編集

東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊[1]。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職[2]

建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める[3]。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)[4]明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。

作品 編集

  • ユートピアの倶楽部(1924年)[5] -東京美術学校の卒業制作。曲線と曲面で構成された生物的造形の表現主義的な作品として知られる。
  • 日西墨三国交通発祥記念之碑(1928年) - 千葉県夷隅郡御宿町岩和田にあるオベリスク型の記念碑。通称はメキシコ記念塔。
  • 金澤家住宅(1930年竣工) - 文京区西片の住宅街にある。2階建和風住宅と大きな三角屋根のアトリエである洋館で構成されている。国の登録有形文化財(建造物)。
  • 六角堂(1931年竣工) - 東京芸術大学構内の通称「奥の細道」と称される木立の中にある。平櫛田中作の岡倉天心像を安置する寄棟屋根の覆屋。
  • 正木記念館(1935年竣工) - 東京芸術大学構内に陳列館(岡田信一郎設計)と並んで建っている。東京美術学校第5代校長正木直彦を記念して建設。建物は和風様式の鉄筋コンクリート造。2階は正木校長の希望で日本美術を陳列するため書院造の和室が設けられている。
  • 若獅子の塔(1965年) - 静岡県富士宮市の陸軍少年戦車兵学校の跡地に戦没同窓生の慰霊・顕彰のために建てられた塔。「若獅子」は戦時中の少年戦車兵の愛称である。1984年(昭和59年)には、同地に若獅子神社が創建された。

著書 編集

  • 『建築製図』 (編集) 理工図書、1957年、

脚注 編集

  1. ^ 国立公文書館デジタルアーカイブ「金沢庸治ヲ東京美術学校助教授ニ任用シ初任判任官俸給制限外支給ノ件」履歴書による。
  2. ^ 『[ケンチクカ] 芸大建築科100年建築家1100人』付録、芸大100年史年表による。ただし、履歴書(前掲)によれば講師になったのは1926年。
  3. ^ 前野まさる他『日本の建築 明治大正昭和 8 様式美の挽歌』(1982年、三省堂)p124。
  4. ^ 「階段の手すりに施された装飾は、黒田記念館の設計を担当した岡田信一郎の弟子で、後に東京美術学校で教鞭をとった建築家金沢庸治のデザイン」との展示案内説明がなされている黒田記念館 - JAPAN GEOGRAPHIC。なお説明文にある黒田記念館ウェブサイトには2018年現在は記載がない。
  5. ^ 藤森照信・清水慶一(監修・執筆)『日本の建築・土木ドローイングの世界』(「TAISEI QUARTERLY」100号記念)大成建設、1997年。『建築雑誌』大正13年6月号所収。

参考文献 編集

  • 海老原一郎・藤森照信「プロポーションは直せない」『建築雑誌』102(1258)1987年4月号。海老原が東京美術学校に在学していた当時の話として、「教室では卒業した金澤庸治さんが見たりしていました」という(p.12)。海老原は1930年卒業。
  • 「関東・東京編(近代和風建築ガイド(2))(技術ノート)」『建築雑誌』106(1313)1991年5月号、近代建築小委員会 - 正木記念館の記述あり(p.75)。
  • 東京藝術大学建築科百周年誌編集委員会 (編) 『[ケンチクカ] 芸大建築科100年建築家1100人』建築資料研究社、2007年

関連項目 編集