金 達寿キム・タルス/キムダルス김달수1919年11月27日太陰暦)・1920年1月17日太陽暦)- 1997年5月24日)は、在日朝鮮人小説家古代史研究家在日朝鮮人文学者嚆矢ともいえる存在である。

金 達寿
(김달수:キム タルス/キムダルス)
ペンネーム 金達寿, 大澤達雄, 金光淳, 朴永泰, 孫仁章, 金文洙, 白仁
誕生 金達寿
1919年11月27日太陰暦)・1920年1月17日太陽暦
朝鮮慶尚南道昌原郡内西面虎渓里亀尾洞(現昌原市馬山会原区内西邑亀尾通
死没 (1997-05-24) 1997年5月24日(77歳没)
東京
墓地 冨士霊園静岡県駿東郡小山町大御神888-2)
職業 小説家古代史研究者
言語 日本語朝鮮語
国籍
太極旗
大韓民国
人口 - 経済
教育 - 交通
言語 - 軍事
政治
文化
遺跡 - 映画
芸術 - 文学
演劇 - 舞踊
宗教 - 民俗
地理
温泉 - 国立公園
歴史
先史時代
古朝鮮 - 檀君朝鮮
箕子朝鮮 - 衛氏朝鮮
三韓時代 - 三国時代
統一新羅
後三国時代
高麗
李氏朝鮮 - 大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
大韓民国
カテゴリ
政治 - 法律 - 経済
教育 - 軍事 - 交通
組織 - 文化 - 歴史
教育 学士文学
最終学歴 日本大学専門部法文学部芸術科、日本大学専門部芸術科
活動期間 1940年 - 1996年
ジャンル 小説古代史
文学活動 新日本文学会文学芸術社2日会リアリズム研究会現代文学研究会
代表作 『後裔の街』(1948年)
『玄海灘』(1953年)
「朴達の裁判」(1958年)
『太白山脈』(1959年)
『日本の中の朝鮮文化』(全12巻 1970-91年)
主な受賞歴 平和文化賞(1957年)、青丘文学賞(1974年)
デビュー作 「位置」(1940年)
子供 1名
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目次

経歴・人物編集

  •  日本の韓国併合により、未来への希望を失った父・金柄奎が自暴自棄になって遊蕩に耽り、破産[3]。金達寿が5歳の時、両親は金声寿と金ミョンスを連れて〈内地〉に渡る[4]。金良寿・金達寿は祖母と暮らすが、1928年頃に良寿が病死、次いで〈内地〉からの父親の訃報が伝えられる[5]。以後、金達寿は祖母と二人で極貧生活を送る[6]。朝鮮語を/朝鮮語で学ぶ機会はなかった。
  • 10歳の時、金声寿に連れられて〈内地〉に渡る[7]。祖母は娘の嫁ぎ先に引き取られたが、数年内に死去する[8]。金達寿、二度と祖母に会うことなく終わる。
  • 1931年、大井尋常夜学校1年生に入学し、読み・書き・算術という簡単なものであるが、初めて日本語で教育を受ける[9]。32年末、東京府荏原郡源氏前尋常小学校3年生に編入[10]。5年生まで過ごすが、6年生に進級したところで貧困のため退学[11]。以後、苦学しながら独学で文学を学んだ。その過程で志賀直哉の小説に出逢い、大きな影響を受ける[12]
  • 日本大学芸術科在学中の1940年に最初の作品「位置」を発表し、その後も大学の雑誌や『文芸首都』に小説を発表する。1941年12月に卒業後、1月20日に神奈川日日新報社の社会部記者となる[13](間もなく同社は神奈川新聞社に統合)。在職中に日本人女性と恋愛するが、意識の違いに絶えられず、43年春、衝動的に京城に旅行し、強引に京城日報社に入社するとともに、日本人女性に離別の手紙を書く[14]。しかしその後、京城日報社が朝鮮総督府の御用新聞社であることを知り衝撃を受け、44年2月、神奈川に戻り、1月ほど後、神奈川新聞社に復社する[15]
  • 本格的な文学活動は、第二次世界大戦終戦後の1946年4月から『民主朝鮮』に連載を始めた長編小説『後裔の街』に始まる。骨太な文体で書かれたその作品は、「朝鮮的なるもの」「民族的なるもの」を軸とし、日本人に対して痛烈な戦争責任を突きつけるものとして、日本人と在日朝鮮人の両方から高い評価を受けた[16]以後、『玄海灘』(1954年)-『太白山脈』(1969年)へと展開した。ただし金達寿自身は、『玄海灘』執筆中に自分の文学の限界を痛感し、志賀の文学をつうじて学んできた自然主義リアリズムとの文学的闘争を開始した[17]『玄海灘』は1953年度下半期の第30回芥川賞と1955年の新潮文学賞の候補に、また中篇「朴達の裁判」(1958年)も1958年度下半期の第40回芥川賞候補になった。しかし芥川賞については、すでに経験豊富な作家であるという理由で、いずれも選考からもれてしまった。
  • 戦前の1941年から『文芸首都』の同人となり、戦後は1946年10月新日本文学会会員となった[18]『文芸首都』は朝鮮人先輩作家として金史良が活躍した雑誌でもあり、後輩には金泰生金石範がいた。『新日本文学』には初期の代表作である「玄海灘」の連載など多くの作品を発表して、『民主朝鮮』とともに金達寿が足場を置いた二大拠点であった。
  • 金達寿はもともと素朴な民族主義的青年[19]で、朝連も大衆団体として出発したが、朝鮮民主主義人民共和国建国後、「北」共和国を支持する立場へと押し出される形になった。1958年に発行された『朝鮮――民族・歴史・文化』が朝鮮総連に批判されて以後、60年代を通じて少しずつ「北」支持の立場から遠ざかるようになった。伝聞によれば金達寿は1972年に朝鮮総連から除名された。しかし南北統一の夢を諦めることなく、1975年に『季刊三千里』を李進熙姜在彦らと創刊した。その後、全斗煥政権下の1981年に、在日朝鮮人「政治・思想犯」の助命や減刑を嘆願する目的で韓国を訪問したことにより、金石範金時鐘をはじめ、多くの日本人と朝鮮人から総攻撃を受け、現在も根深い問題として残っている。
  • 1970年代頃から古代史の領域に重心を移しはじめ、「日本古代史は、朝鮮との関係史である」という視座から「日本の中の朝鮮文化」を探究した。皇国史観の核心となっていた「帰化人」に代わって、「渡来人」の呼称を提唱した歴史学者上田正昭に賛同し、当時の先進文化を伝えたという高句麗人・百済人・新羅人等の存在を「渡来人」として日本人に認識させ、日本人の対朝鮮観に影響を与えようとした。
  • 古代史に関する著作に、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ(全12巻)や『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)等がある。これらの著作は彼の小説作品の読者層を超えて影響を与え、日本史の教科書で戦後も長年使われてきた用語「帰化人」が「渡来人」に書き換えられる大きな原動力となった。森浩一によれは、「大学でゼミをやっていると、突然、「これから金達寿流の方法記に切り替えます」」と宣言する学生が全国各地に続出したという[20]
  • 創作活動が1982年の『行基の時代』で終わったのに対し、「日本の中の朝鮮文化」シリーズはライフワークとして晩年まで続けられた。
  • 『民主朝鮮』・『文学芸術』・『新朝鮮』・『鶏林』・『リアリズム』(のち『現実と文学』と改題)・『日本のなかの朝鮮文化』・『現代と文学』・『季刊三千里』。『季刊青丘』など、〈解放〉後だけでも累計200冊以上の雑誌を編集した業績も重要である。

著作編集

小説編集

  • 『後裔の街』朝鮮文芸社、1948年
  • 『叛乱軍』冬芽書房、1950年
  • 『富士のみえる村で』東方社、1952年
  • 玄海灘筑摩書房、1954年
  • 『前夜の章』東京書林、1955年
  • 『故国の人』筑摩書房、1956年
  • 『日本の冬』筑摩書房、1957年
  • 『番地のない部落』光書房、1959年
  • 『朴達の裁判』筑摩書房、1959年
  • 『夜きた男』東方社、1961年
  • 『密航者』筑摩書房、1963年
  • 『中山道』東方社、1963年
  • 『公僕異聞』東方社、1965年
  • 太白山脈』筑摩書房、1969年
  • 『小説 在日朝鮮人史』創樹社、1975年(全2巻)
  • 『落照』筑摩書房、1979年4月
  • 対馬まで』河出書房新社、1979年10月
  • 『金達寿小説全集』筑摩書房、1980年(全7巻)
  • 行基の時代』朝日新聞社、1982年3月

評論・エッセイ編集

  • 『私の創作と体験』葦出版社、1955年
  • 『朝鮮 -民族・歴史・文化-』岩波新書、1958年
  • 『日本の中の朝鮮文化 その古代遺跡をたずねて』講談社、1970-1991年(全12巻)
  • 『古代文化と「帰化人」』新人物往来社、1972年
  • 『古代遺跡の旅 飛鳥ロマンを散歩する』サンケイ新聞出版局、1972年
  • 『日本古代史と朝鮮文化』筑摩書房、1976年
    • のち『日本古代史と朝鮮』に改題し講談社学術文庫
  • 『金達寿評論集』筑摩書房、1976年
    • 上巻「わが文学」、下巻「わが民族」
  • 『日本の中の古代朝鮮』学生社、1979年1月
    • のち『古代朝鮮と日本文化』に改題し講談社学術文庫
  • 『古代日朝関係史入門』筑摩書房、1980年2月
  • 『故国まで』河出書房新社、1982年4月
  • 『私の少年時代 差別の中に生きる』ポプラ社、1982年8月
  • 『古代日本と朝鮮文化』筑摩書房、1984年9月
  • 『古代の日本と朝鮮』筑摩書房、1985年9月
  • 『渡来人と渡来文化』河出書房新社、1990年12月
  • 『見直される古代の日本と朝鮮』大和書房、1994年6月

共編著・対談編集

  • 司馬遼太郎上田正昭『日本の朝鮮文化 座談会』中央公論社、1972年
  • 司馬遼太郎、上田正昭『古代日本と朝鮮 座談会』中央公論社、1974年
  • 司馬遼太郎、上田正昭『日本の渡来文化 座談会』中央公論社、1975年
  • 谷川健一『日本文化の源流を求めて 討論』筑摩書房、1975年
    • のち『古代日本文化の源流』に改題し河出文庫
  • 『日本と朝鮮 金達寿対談集』講談社、1977年6月
  • 姜在彦『手記=在日朝鮮人』竜渓書舎、1981年6月
  • 司馬遼太郎、陳舜臣『歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮』講談社、1984年4月
  • 『回想 唐木邦雄』審美社、1987年2月
  • 谷川健一『地名の古代史 近畿篇』河出書房新社、1991年6月
  • 谷川健一『地名の古代史 九州篇』河出書房新社、1988年8月

翻訳編集

  • 李箕永『蘇える大地』ナウカ社、1951年(朴元俊共訳)

自伝編集

  • 『わがアリランの歌』中公新書、1977年6月
  • 『わが文学と生活』青丘文化社、1998年5月

研究文献編集

  • 崔孝先『海峡に立つ人──金達寿の文学と生涯』批評社、1998年12月
  • 辛基秀 編著『金達寿ルネッサンス』解放出版社、2002年2月
  • 廣瀬陽一『金達寿とその時代――文学・古代史・国家』図書出版クレイン、2016年5月

脚注編集

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  1. ^ 金達寿『わがアリランの歌』(1977年 中公新書)p.3。
  2. ^ 同前、pp.3-4。
  3. ^ 同前、pp.9-10
  4. ^ 同前、pp.9-10。
  5. ^ 同前、pp.12-15。
  6. ^ 同前、pp.20-30。
  7. ^ 同前、p.30。
  8. ^ 同前、p.30。
  9. ^ 同前、pp.60-64。
  10. ^ 同前、p.64。
  11. ^ 同前、p.84。
  12. ^ 同前、pp.169-170。
  13. ^ 同前、p.212。
  14. ^ 同前、pp.215-231。
  15. ^ 同前、pp.237-247。
  16. ^ 伊藤整「日本的思考を拡大/朝鮮民族の実質を感動的に表現」『日本読書新聞』1954年2月、p.4。佐多稲子「金達寿『玄海灘』」『群像』1953年月、p.167。姜在彦「文学が持っている魅力」『解放新聞』1954年3月、ページ数不明、原文朝鮮語
  17. ^ 金達寿「視点について──どうかくかの問題・ノオト」『リアリズム』1958年10月。
  18. ^ 金達寿『わが文学と生活』1998年12月、pp.149-153。
  19. ^ 金達寿、同前、pp.133-135。
  20. ^ 森浩一「無題」『『わがアリランの歌』を出した金達寿の会』1979年3月、pp.37-38

関連項目編集