金 (王朝)

中国の北半を支配した女真族の征服王朝
大金
遼
北宋
斉 (劉予)
1115年 - 1234年 モンゴル帝国
南宋
東遼
大真国
金の位置
公用語 女真語漢語契丹語
首都 会寧1115年 - 1153年
燕京1153年 - 1215年
開封1215年 - 1234年
皇帝
1115年 - 1123年 太祖
1234年 - 1234年末帝
面積
1126年2,300,000km²
人口
1142年32,700,000人
1190年45,447,900人
1210年53,720,000人
変遷
建国 1115年1月28日
を滅ぼす1125年
靖康の変1127年
黄河以北の領土を失陥1215年
モンゴル帝国によって滅亡1234年2月9日
通貨交鈔銅貨
現在中華人民共和国の旗 中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
ロシアの旗 ロシア連邦[注釈 1]
モンゴルの旗 モンゴル
満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨
五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
北朝鮮
薪島郡
中国朝鮮関係史
Portal:中国

(きん、拼音:Jīn、女真語 [amba-an antʃu-un][1]1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝[2]

中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲
 
中華人民
共和国
中華
民国

台湾

国姓完顔氏(ワンヤン し、女真語:[2]12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングート西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。

歴史 編集

遼支配下の女真人 編集

金を建国する前の女真(ジュシェン)は、満洲(マンチュリア)の地域すなわち、現在の遼寧省吉林省黒龍江省ロシア連邦沿海州外満洲)という広い地域に住んでいた[2][3]。ジュシェンはツングース系民族に属し、紀元前2世紀頃からの夫余紀元前1世紀頃に族によって建てられた高句麗、紀元後5世紀頃から一定の勢力を有していた 勿吉靺鞨、そして粟末靺鞨に高句麗遺民を加えて7世紀末葉に建国された「海東の盛国」渤海は、いずれもツングース系の集団とみられ、狩猟や牧畜を主な生業としながらも、比較的早い段階から農耕を取り入れていた[3][4]

「女真」は本来、靺鞨五部のうちの「黒水部」と称された集団の一部族の自称であるといわれている[5]。渤海国が926年にモンゴル系契丹(キタン)人によって滅ぼされると、の太祖耶律阿保機の長男の耶律突欲は渤海国の領域を受け継いだ東丹国の王となったが、彼は父の太祖の死後故郷に戻り、東丹の官庁や人民を東平(現在の遼陽市)に移したため、旧渤海領は支配者不在の状態となった[5]。そこで黒竜江(アムール川)の下流にいた黒水靺鞨の人びとが南下し、やがて各地に住み着いた[5]。遼の時代、女真人たちは松花江豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼や高麗に朝貢し、「黒水女真」や「東女真」などと称されていた[6]。女真人は、農耕・牧畜・狩猟・採集・漁撈などに従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)やクロテンなど獣の毛皮を交易していた[7][8][9][10]。また、の人びとが珍重した「北珠」と称する真珠の産地でもあった[10]の産地でもあって、これらの品は高麗や契丹とも交易されて、武器や軍事物資などを得た[2][3][10]。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真(生女直)と、遼にしたがっていた熟女真(係遼籍女真)に大別された[2][3][4][5][6][10]

生女真に属していた完顔(ワンヤン)氏は、現在の黒竜江省の松花江(スンガリ川)の支流アシュ川中国語版(按出虎水)流域に生活し、キタン人国家の遼に服属していたが、キタン人支配者たちは奢侈的な生活にふけり、女真に対して過酷な搾取を行った[11]。遼は、南方の宋と交易するのみならず、ウイグルを通して西域とも交易し、西域の奢侈品を輸入していたが、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から歳幣としてを受け取っていたものの、多くは宋の産品を購入するために消費されていた[11]聖宗興宗道宗3代の黄金時代の後を受けたキタン最後の皇帝、天祚帝耶律阿果は、華美な中国の文物を愛好して狩猟に熱をあげ、深酒をするようになり、その政治はしだいに放漫なものとなっていた[2][3]。キタンはもともと、女真族の住む東北地方の経営には必ずしも積極的ではなかったが、毎年、狩猟に用いるための松花江下流域に使臣を派遣しており、この使者たちの横暴なふるまいは女真の人びとを怒らせた[2][3][11][12]。使臣たちは海東青を求める名目でジュシェンの人びとに黄金を献上させ、またジュシェンの婦人たちに暴行を加えることもしばしばあったという[11][注釈 2]

完顔氏より出た劾里鉢(ヘリンボ)には烏雅束(ウヤス)、阿骨打(アクダ)、呉乞買(ウキマイ)らの子があった。ヘリンボ死後、首長権は頗剌淑中国語版(ポラシェ)、盈歌(インコ)、烏雅束(ウヤス)と移り、ウヤスは生女真諸部を統合した[2][13][14][注釈 3]。ウヤスが死去してのちは、弟の阿骨打(アクダ)が首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた[2][13]

金の建国と華北進出 編集

約200年におよび遼の圧政下にあった女真人であったが、完顔阿骨打は1113年、熟女真を臣伏させて遼に対して反乱を起こし、1114年寧江の戦いで勝利して勢力を伸ばした[4]1115年には遼から独立して按出虎(アルチュフ)水[注釈 4]の河畔で即位し、「大金」を国号とし、「収国」の元号を定めた[2][3][4][5][13][14]。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる[3]。『金史』(1345年成立)によれば、アクダは、遼に対する対抗心をあらわにしている[3]

アクダの軍が、キタンの熟女真支配の拠点に遠征し、アクダ軍の大勝利に終わった[13]1116年、アクダ率いるジュシェン軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)も陥落させて遼東地方を支配下に収めた[3][13]。遼の権威は地に墜ちた。一方、アクダの快進撃の報に接した宋王朝も金王朝に接近し、1118年、宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけた[16][注釈 5]

キタンとの講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、1120年に北宋との間で「海上の盟」と称される盟約を結んだ[4][16][19]。条件は、従来キタン国家の遼に支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)をジュシェン国家の金にまわすこと、金は戦闘において万里の長城よりも南に越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった[16][19]。さらに宋側から追加された条件は燕雲十六州に関してであった[16]。それは、燕京(現在の北京市)については宋が攻めるが、雲州(西京。現在の山西省大同市)の攻撃は金が担当すること、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった[16]。アクダは、あまりに身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに答えられない状況が続いたが、結局は約束通り、雲州を制圧して天祚帝耶律阿果を陰山山脈方面[注釈 6]に敗走させた[16][19]。一方の宋は南方で方臘の乱が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれに派した[20]。しかも宋は、キタン最後の砦としてのこした耶律淳らの守る守備軍に敗北を喫したため、当初提示した条件を自ら破って金に援軍を要請した[16][20][注釈 7]。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、代償として大量の銭と糧食を得ることとなった[16][注釈 8]。しかし、宋朝は歳幣を支払わない。なお、『金史』によれば、この間、太祖アクダは同族の完顔希尹中国語版や完顔葉魯らにジュシェン語をあらわす文字の創成を命じ、彼らは1119年天輔3年)8月、契丹文字漢字を参考にして女真文字(「女真大字」)を完成させたという[22][注釈 9]

阿骨打(アクダ)は1123年に死去するが、弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した[4][5][16][23][24][注釈 10]。降伏した天祚帝はジュシェン民族の聖なる山、長白山(朝鮮名、白頭山)の麓に送られた。太宗ウキマイは1125年9月、宋への侵攻を開始し、アクダの子の斡離不(オリブ、完顔宗望)は河北方面から、撒改の子の粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)は山西方面から宋に侵入して華北一帯を席巻[2]1126年正月には宋の首都の開封を包囲した[16][24][25][注釈 11]。宋朝廷では和戦両様で方針の定まらない状態が続き、結果としては金は莫大な賠償[注釈 12]を獲得して和議を結び、金は北方に引き揚げた[25][注釈 13]。宋では徽宗がおびえて退位し、子の欽宗が新たに即位した[25]。しかし、金軍が撤退すると宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど攪乱を画策して和約を破ったので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させて占領し、欽宗を北方に連行して北宋を滅ぼした[5][16][24][27]。このたびは、ウキマイの宋を廃する決意が固く、宋に対して天文学的な軍事賠償を要求し、また上皇・皇帝を人質として差し出すことを命じ、賠償が十分に払われないとみるや兵に開封の略奪を命じた[16][27]。北宋滅亡に至る、1125年9月から1127年3月までの一連の事件を靖康の変と称する[4][16][27]。靖康の変では、欽宗のみならず上皇となっていた徽宗、および多くの皇族や官僚、公主たちを含め3,000人を連行し、燕京やジュシェンの故郷である東北部に連れ去った[16][24][27][注釈 14]

華北支配へ 編集

破竹の勢いの金の強さは、時の勢いもおおいに手伝っているが、後述する勃極烈(ボギレ)制や猛安・謀克(ミンガン・ムクン)制によるところも大きかった[4][29]。しかし、北宋を滅ぼした金の中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点を示し[疑問点]、統治の面でも慣れない漢民族支配に自信が持てない状況にあった[注釈 15]。そこで太宗ウキマイが採った方法は、過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にすることであった[29]。ウキマイは1127年3月、宋の宰相であった張邦昌を皇帝にすえ、国号をとさせて、名目上の首都を金陵(現在の南京)とした[29][30]。しかし張邦昌は、その4月、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の康王(趙構)[注釈 16]を皇帝位につける運動を主導した[29][31]。南に逃れた康王は、江南の北宋残存勢力を糾合して南京応天府(河南省商丘市)で高宗として皇帝に即位し[注釈 17]、宋王朝を復活させた[4][29][31][注釈 18]。金は南宋懲罰軍による再度の南征を開始し(宋金戦争)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦い、明州(寧波)まで南宋皇帝を追跡して引き揚げた。

1130年、金の左副元帥であったネメガは南宋の力を弱めるため、河南、山東以南の地に宋の済南府知府(地方知事)であった劉豫を皇帝に立て、開封を都としてを樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した[2][4][29][注釈 19]。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。一方、金は徽宗や欽宗を黒竜江省依蘭県まで移送し、宋人の反抗・奪還の芽をつぶした[29]。斉国は金の傀儡政権として南宋に対峙していたが、1137年には廃された。

金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、和約が金に不利な内容だったため、1142年にあらためて両国の間で結ばれた(紹興の和議[32]。この和約は、両国は大散関中国語版陝西省)と淮河を結ぶ線を以て国の境とし、宋は金に対して臣下の礼をとり、歳貢として銀25万両、絹25万匹を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった[4][32][33][注釈 20]。金は、四海の君としての名義を得た。ただ、金が支配する華北の地は、ジュシェン(女真)人が大量に移住したとはいえ、なおも圧倒的に漢人が多く住む世界であった[32]

1135年に第3代皇帝となった熙宗合剌(ホラ)の時代から、金はしだいにジュシェンの独自性は失われ、中華の風にそまっていった[24][32][34]。漢地を直接支配することになった金朝が中国式国家体制を採用したのは、それが便利だったためであったが、しかし、中国式の独裁体制を布くにはジュシェンの上層部にあっては皇族の力が強大にすぎた[35]。熙宗は、宗室最有力者のネメガを兵権から切り離し、斉国を廃止した[34]。官僚制度は三省を中核にして整備され、皇帝の尊厳を高める擬制や禁衛の組織が整備され、皇統制条が発布された[34][注釈 21]。猛安・謀克の制度は女真人のみに限定して強化し、かれらを華北に移住させた[34]。華北の漢人たちは州県制のもとで一元的に支配した[34]

1142年における女真族王朝「金」と周辺諸王朝
南宋)は漢民族王朝、西夏はチベット系タングートの王朝、西遼は遼の王族耶律大石の建てたキタン人王朝、大理はチベット系ペー族の王朝
金の疆界図

漢化の進展とその抑制 編集

熙宗は治世の中頃から精神を病み、皇族を弾圧して大量の殺戮をあえておこない、自らの求心力を高めようとしたが、その結果、人心は不安定さを増し、熙宗自身も人望を失った[2][24][35]1149年、熙宗の従弟にあたる迪古乃(テクナイ)は宗室の者とはかり、皇帝を殺害して帝位を簒奪し、海陵王となった[2][24][32][34][35][注釈 22]。海陵王は、宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し[34][35][注釈 23]、また、1153年には、都を会寧から燕京(中都大興府)に遷都して中華風の国家に改造した[2][24][32][34][35][注釈 24]。身内を信じられなくなった海陵王はさかんに漢人官僚を登用した[36]。それまで北選(遼制)・南選(宋制)に分けてきた科挙も一本化された[34]

海陵王はまた、財政を顧みず中都の造成に傾注した[37]。『金史』は、そのさまを以下のように記している[37]

宮殿の造営には、1本の木を運ぶのに2000万を費やし、一車を引くのに500人を使った。宮殿のかざりはすべて黄金をはりめぐらし、ために一殿の費用は億万をもって計え、しかもできあがってもこわし、ひたすら華麗をきわめようとした[37]

金の中都は、遼の南京析津府を基として、その規模を拡大させたもので、『大金国志』によれば、都城の周囲は75里で、城門は12におよび、各辺に3門ずつを開き、内部の宮殿の数は36、楼閣はこの倍あるという[37]。明代の謝肇淛は、「遼、金および元は、みな燕山(北京)に都したが、制度文物は金が最も盛んであった。今、禁中の梳粧台、瓊花島、それに小海、南海などは、みな金の物である」と述べている[37]

1161年、海陵王はこの時代の征服者として初めて中国(天下)の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした[2][24][32][36][38][注釈 25]。海陵王は皇族や重臣たちの忠告も無視し、20年来の平和条約をも破って南征軍を組織し、従来のような陸上部隊だけではなく軍艦を建造して海軍を創設し、一方は山東半島から杭州の横を突き、他方は運河を利用して江蘇方面に南下しようという戦略を立てた[32][36]。金軍は60万と号する大軍を組織し、初めは優勢であったが、慣れない水戦に苦戦し[32][34]、宋軍が火砲を用いた采石磯の戦いでは手痛い敗北を喫している[36]。その間、各地で契丹の反乱が勃発した[32]。海陵王はその知らせを聞いても宋征服に固執したが、海陵王の恐怖政治をきらったジュシェンの有力者たちが東京(遼陽府)にいた皇族で彼の従弟にあたる烏禄(ウル)を擁立し、人々は雪崩を打ってウルに味方した[24][36]。ウルが金の皇帝世宗として東京遼陽府で即位し、海陵王は軍中で部下に殺害された[2][24][32][34][36][38]。なお、海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために交鈔が初めて紙幣として発行された。

世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年乾道の和約中国語版を結んだ[32][38]。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係へと緩和し、歳貢を歳幣と呼び換え、25万両ずつの銀・絹をそれぞれ20万両に減額するというものであった[32][38][注釈 26]。その一方でキタン人の反乱を速やかに収めて国内を安定させた[32]。さらに世宗は海陵王の遠征で大きく損なわれた財政の再建をめざし、増税をおこない官吏を削減した[36]。南宋でも、同じ時期、名君とされる孝宗が立ち[39]、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金朝にあっては繁栄と安定の時代をむかえたといわれる[38][40]

平和が長引き、女真(ジュシェン)の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(キタン族を含む)との割合は当初は1:6程度、漢人の人口増でそれが1割弱にまで拡大したので、女真の軍事力の弱体化が問題となってきた[34]。世宗もまた1162年に燕京を都を定めたが、ジュシェンの民は中華の華美な風俗に染まり、固有の文化を忘れ、漢化の進行はいっそう顕著になっていった[24]。また、京師や地方に女真文字女真語を用いた学校をつくり、1171年には女真進士科をつくって女真語による科挙もおこない、女真人が女真人を教育する仕組みをつくりあげた[2][24][40]。さらに、四書五経などの漢文献の女真文字への翻訳事業も行った[2][40][注釈 27]

女真人・女真文化保護のための諸政策が展開されたにもかかわらず、かれらの経済的な没落は著しかった[40]。ジュシェン人貧窮化の原因としては、海陵王時代の外征の徴発、猛安・謀克戸間相互の階層分化、給与された農地の土地生産性の低さなどが挙げられる[34]。ジュシェン人は華北移住の初期には相応の田畑をあたえられたが、彼らのなかには、その土地を漢族農民に小作させ、小作料に依存して徒食することが多くなり、宴楽にふけって貧窮化し、最終的に農奴に成り下がる者もあった[24]。また、農耕技術はもとより商業・交易においては漢人の才覚がすぐれ、人口も多かったので、ジュシェンの固有性を維持していくことは難しかった[40]。金の税制の基本は北宋のそれを踏襲して両税法であったが、世宗は財政難を克服するため、「物力銭」という一種の財産税を設け、「通検推排」と称する財産調査を行って猛安・謀克戸を除く全戸に課税した[34]。これは財政再建には大きな役割を果たす一方、不満も多かった[34][40]。また、旧来の官有地を漢人が私有地のように用いている土地、税を負担していない土地、富裕な女真人が不当に所有している広大な土地などを没収し、貧しい女真人に分与しようとした[2][40][41]。しかし、この再分配政策は、漢人からは先祖伝来の土地が奪われたと受け止められて、かえって女真人・漢人の間に軋轢を生み、その効果も薄かった[2][41]

世宗の時代は後世「大定の治中国語版」と称され、彼自身は「小」と称えられた[40]。しかし、一方では、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったという指摘もある[40]

金王朝の衰退 編集

 
金の界壕。外壕・主壁・内壕・側壁という構造をなし、壕自体は太宗ウキマイの時代にさかのぼる。壁(土塁)の造成は1190年代より始まった。

世宗の皇太孫であった麻達葛(マダガ)が第6代章宗として即位した1189年頃から、モンゴル民族の北からの侵入が活発化しはじめた[24][42]。章宗は、即位のときの曲折を遺恨に感じ、自身の権力を脅かしそうな皇族を粛清した[43]。文化面では、章宗自身が北宋の徽宗のような金朝随一の文人皇帝で、絵画の作品を残した[2]。章宗は豪奢な生活を好み、官吏の数も世宗時代の3倍に増やした[2][24]。一方、もともと金の北方防衛を任されていたはずのキタン人、テュルク人、タングート人、モンゴル人などが金の統制を離れはじめ[32]、その防禦のために金の財政は圧迫されるようになった[24][42]。章宗は10年にわたって「界壕中国語版」と称される土塁チチハルの北からフフホトの北まで延々と築いたが、これは北方遊牧民に脅威をいだいて草原に造られた新たな長城であり、もはや、心理的には従来の漢族王朝と変わるところがなかった[24][32]。「界壕」建設に加え、1194年には黄河の大決壊が生じ、金はいっそう経済的苦境に立たされた[32]モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタル部やキタンの反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトトオリルやモンゴルのテムジンの助けを借りた[24][44][注釈 28]

章宗は、皇統制条を改めて泰和律令を定め[34]制・法典・格式をはじめとして科挙官制などの体制整備や常平倉の設置などの改革を行って中国王朝としての姿を完成させた。この時期の金朝の政治を「明昌の治」と称することもある。また、海陵王時代以来発行してきた交鈔は世宗時代には順調に流通していたが、ここにおいて財政の窮乏を切り抜けるために大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、それではインフレーションを招いて交鈔の信用失墜を招きかねないので、章宗は当時定められていた通用期限を撤廃し、いつでも通用することで信用のある紙幣にしようとした[34]。しかし、発行額の増大は交鈔流通の停滞との貨幣使用が広がるという結果をもたらした[34][注釈 29]

金の疲弊に乗じようと考えた南宋の宰相韓侂冑は、これを好機として1205年に戦端を開き、金に攻め込んだが逆に撃退され、金は国境線である淮河を越えて長江のラインにまで迫る勢いを示した[46]。予想外の展開に南宋政府はあわて、財政難だったのは南宋も同じであったところから、金と南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ(開禧用兵[2][24][32]。和約では、1142年の国境線にもどり、金・宋の関係が叔姪の関係から伯姪の関係となり、宋から金への歳幣は1142年の取り決めより銀・絹5万ずつ増額された[注釈 30]。一方、ウルジャ河の戦いでケレイトやモンゴルと連合したことは、結果的に彼らの勢力を伸張させることとなり、モンゴルでのテムジンの高原統一を間接的に促す結果となった[47]1206年、テムジンはチンギス・カンと称し、モンゴル帝国が成立した[44]

1208年、「風流天子」にして恐怖の専制君主であった章宗が41歳の若さで急逝した[43]。猜疑心の強い章宗が心を許したのが叔父にあたる果繩(ガジェン)であった[43]。章宗は、金帝国をまとめるカリスマ性を有していたが[48]、章宗がガジェンを好んだのは、その暗愚さゆえともいわれている[43]。結局、ガジェンが7代衛紹王として即位すると、チンギス・カンは彼に対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した(第一次蒙金戦争[44][47]。衛紹王の治世においては、中央権力の空洞化が進んでいて、これに対応することができなかった[48]。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は野狐嶺の戦いで金の大軍を破って長城を突破し、河北・山東をも攻略して、2年あまりにわたって金の国土を蹂躙した[2][34]1212年には遼の皇統を継ぐキタン人の耶律留哥が、自ら「遼王」と称して反乱を起こし、現在の吉林省から遼寧省にかけて支配地を広げ、モンゴルの配下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では、1213年に首都の中都でクーデターが起こって女真人の将軍の胡沙虎(クシャク)によって衛紹王が殺され、胡沙虎は章宗の庶兄であった吾睹補(ウトゥプ)を立てて権力を握ったが、胡沙虎自身は2カ月後、別の女真人の武将の高琪により殺された[48]

金の滅亡 編集

 
1214年4月、金朝の宣宗とチンギス・カンの講和によりモンゴルに嫁いだ岐国公主(画面左の馬上の人物)

ウトゥプが8代皇帝宣宗として即位すると、徒単鎰らはこれを補佐し、主戦派が力を失ったのち、1213年、モンゴルに対する和議に踏み切った[42][44]。ここでは、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、一族の福興(フシン)の建言を受け入れて岐国公主(衛紹王の皇女)をチンギス・カンに嫁がせた[42][44]。講和によりチンギスは撤兵したが、1214年、金は中都(燕京)を捨て、北宋の旧都である河南の開封に突如、遷都を決めた[2][32][44][47]。このとき、金の南遷に動揺したキタンの一部が燕京で反乱してモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を誠実さを欠くものと受け止め、和約違反と責めて金に対する侵攻を再開した[34][44]。将来を嘱望されていた徒単鎰は、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると論じて、宣宗の開封遷都を諫めたが、受け入れられず遷都宣言の3日前に没している[48][注釈 31]

1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都の戦いで燕京が陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った[44]。チンギス・カンは、金朝に対してこのとき和平条件として「帝号」を放棄するよう要求している[44]。黄河の南、開封を本拠にした金は河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止めることができなかった[42]。また、防戦のために多額の軍事費を必要としたため、人民の負担は増し、各地で反乱が絶えなかった[42]。100万におよぶ猛安謀克軍が河北から河南に移ったものの、河南にはそれを養う余力がなく、漢人はジュシェン人による搾取を深く恨んだ[47]。同じ1215年、満洲では耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していたジュシェンの蒲鮮万奴が独立して大真国(東夏国)を建て、遼東半島の一部から吉林省咸鏡道、沿海州南部までを支配するようになった[42][47][注釈 32]。これにより、金の帝室は満洲に逃れることもできなくなってしまった[42]。宣宗は高汝礪のような有能な家臣に恵まれたが、時の勢いをはね返すことはできなかった。1217年、宋は金に戦端をひらいた[2]1224年には戦闘もいったん収束し、講和にいたった。

宣宗の子の寧甲速(ニンキャス)が1224年、皇位を継承した(9代哀宗)。哀帝は、タングート西夏との同盟に活路を見いだそうとしたが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。金の窮状をみてとった宋は歳幣を送ることを停止し、復讐の姿勢を示すようになり、金は南北から脅威を受けるようになった[42]。1227年にチンギス・カンの後を継いだオゴデイは南宋と連合して金を挟撃することを提案した[32]。モンゴルは成功のあかつきには、南宋に河南の地をあたえることを約束した[42]。宋朝では、モンゴルと結ぶことについて一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった(第二次蒙金戦争[32][注釈 33]。こうしたなか、陳和尚はモンゴル支配を避けて金に亡命してきた多民族からなる亡命者を「忠孝軍」と名付け、寡兵をもってしばしばモンゴル軍に勝利し禦侮中郎将にまで昇進した。

1232年トルイの軍が漢水を渡って河南に入ってきた情報に、黄河の南に大軍勢を配置していた金の政府は驚愕した[49]。すぐさま、猛安謀克軍に南方への転戦が命じられた[49]。開封南郊の平原でトルイの軍と金軍主力が激突した[49]。強行軍で疲弊していたトルイは三峰山麓に陣を張り、馬をおり、塹壕を掘って猛烈な寒波から身を守った[49]。蒙金ともに余力はなかったが、雪中移動や厳冬期の用兵に慣れたモンゴル軍に一日の長があった[49]。この三峰山の戦いで金は大敗を喫して金軍主力は壊滅[49]完顔合達は戦死、敗軍の将となった陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された。以後は抵抗もままならず、1234年には開封攻囲戦により、首都が陥落した[32][42][47]。哀宗は開封から脱出して帰徳に逃げ、さらに淮河上流の蔡州へと逃れるところを、モンゴル・南宋の連合軍に挟撃され、みずから首をくくって死んだ[2][42][44][47][49]。哀宗に後続を託されていた遠縁の呼敦(ホトン、金の末帝)も即位してわずか半日後にモンゴル軍によって殺害され、ここに金は滅亡した。

モンゴル帝国によって滅ぼされた金の遺民、とりわけジュシェンの人びとがその後どうなったかについて、文献資料は多くを語らないが、幸運にも生き残った人びとは故郷のマンチュリア(中国東北部)に帰ったものと推測される[47]。そして、古くからの住民と新しい住民も含め、東北部に住むジュシェン人はやがて遼陽等処行中書省という行政区画に編入されてモンゴル人の支配を受けるようになった[47]

なお、17世紀になって女真族・ジュシェン人は愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチが「金」を名乗る王朝を興したが、これは「後金」と呼ばれて区別される[7]。後金は、1636年にホンタイジによって「」と改称され、大帝国を築いた[7]。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたって同じ民族が歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例である[7]

金の皇帝 編集

完顔(ワンヤン)氏の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」であり、その巻頭には始祖以来太祖アクダがある。うち、始祖以下昭祖に至る5代については、その事績は歴史的事実とは考えられず、多分に空想的で、その実在も疑問視される[2]。6代景祖の事績も史実とするにはあやしい部分もあるが、このころから完顔氏が有力な勢力になり始めたとみられる[2]。7代世祖劾里鉢(ヘリンボ)、8代粛宗頗剌淑中国語版(ポラシェ)の時期には、完顔氏の勢力は松花江流域や牡丹江上流地方にまで勢力を拡大したと考えられる[2]。9代穆宗の盈歌(インコ)は豆満江上流域に自ら遠征し、綏芬河ハンカ湖地方にも遠征軍を送っていて、完顔氏の支配圏は満洲東部の全域におよぶようになった[2]。このため遼の朝廷は盈歌に「生女直節度使」の職を与えた[2]。10代康宗の烏雅束(ウヤス)は節度使の職を継いで完顔氏の首長となり、朝鮮半島北東部の咸鏡道方面にまで勢力を伸ばし、その支配地はかつての渤海国のそれに匹敵するようになった[2]。金を建国したアクダは、このウヤスの弟である[2]

歴代皇帝  編集

順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。

  1. 太祖(阿骨打=アクダ、完顔旻 1115年 - 1123年)世祖・劾里鉢=ヘリンボの次男。
  2. 太宗(呉乞買=ウキマイ、完顔晟 1123年 - 1135年)劾里鉢の四男。太祖の末弟。
  3. 熙宗(合剌=ホラ、完顔亶 1135年 - 1149年)太祖の嫡子の繩果=ジェンガ(徽宗/完顔宗峻)の長男。
  4. 海陵煬王(迪古乃=テクナイ、完顔亮 1149年 - 1161年)太祖の庶長子の斡本=オベン(完顔宗幹)の次男。
  5. 世宗(烏禄=ウル、完顔雍・褎 1161年 - 1189年)太祖の庶子の訛里朶=オリド(睿宗/完顔宗堯)の嫡子。
  6. 章宗(麻達葛=マダガ、完顔璟 1189年 - 1208年)世宗の次男の胡土瓦=クトゥハ(顕宗/宣孝太子・完顔允恭)の次子。
  7. 衛紹王(果繩=ガジェン、完顔永済・允済 1208年 - 1213年)世宗の七男。章宗の叔父。
  8. 宣宗(吾睹補=ウトゥプ、完顔珣 1213年 - 1223年)胡土瓦(完顔允恭)の庶長子。章宗の異母兄。
  9. 哀宗(寧甲速=ニンキャス、完顔守緒・守礼 1223年 - 1234年)宣宗の三男。別称:義宗。
  10. 末帝(呼敦=ホトン、完顔承麟 1234年)劾里鉢の末裔。

系図 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
(追)景祖
完顔烏古廼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)世祖
完顔劾里鉢
 
(追)粛宗
完顔頗剌淑
 
(追)穆宗
完顔盈歌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)康宗0
完顔烏雅束
 
(1)太祖0
完顔阿骨打 / 王旻
 
 
 
 
 
(2)太宗0
完顔呉乞買 / 王晟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)徳宗0
完顔斡本 / 王宗幹
 
(追)徽宗0
完顔繩果 / 王宗峻
 
(追)睿宗0
完顔訛里朶 / 王宗堯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)海陵王0
完顔迪古乃 / 王亮
 
(3)熙宗0
完顔合剌 / 王亶
 
(5)世宗0
完顔烏禄 / 王雍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
完顔阿魯補 / 王光英
 
 
 
 
 
(追)顕宗0
完顔胡土瓦 / 王允恭
 
(7)衛紹王0
完顔果繩 / 王允済
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)宣宗0
完顔吾睹補 / 王珣
 
(6)章宗0
完顔麻達葛 / 王璟
 
梁王
完顔?? / 王従恪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)末帝0
完顔呼敦 / 王承麟
 
 
 
 
 
(9)哀宗0
完顔寧甲速 / 王守緒
 
 
 
 
 
 
 
 

太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。

政治 編集

勃極烈(ボギレ)制と三省制 編集

王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた[4]。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり[疑問点]、阿骨打は皇帝に即位する以前、その君長の筆頭として都勃極烈(トボギレ)を称していた[2][14]。ボギレは、このように一応のランク分けがなされていたが、あくまでも法制上のことであり、現実には大きな身分的隔たりをともなうものではなく、全体であった[15]。6名のうち国論忽魯(グルンフル)ボギレの撒改はアクダと国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であった[2][15]。ボギレの職掌や数には変動もあった[15]。ボギレは主に皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、国政の定める議事は全ボギレ各員の合議制によって金の政治を決定される慣行だったので、皇帝が独裁権をふるう余地は少なかった[2][12][15][29]

太宗ウキマイの1126年に新たな占領地となった華北の一部で中華式の三省制(中書省門下省尚書省)が導入されたがボギレ制も依然のこっていた[2][24]。こうしてウキマイの時代には、女真人統治にはボギレ制、漢人統治には三省制の二重体制がしかれた[2]。熙宗が即位した1135年にはボギレ制が廃され、全面的に三省制に切り替わった。宰相格であった領三省事にはそれまでボギレであった宗室の一族や有力者が任命された[2]。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されたが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形でなされたという側面がある[35]

猛安(ミンガン)・謀克(ムクン)制 編集

一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムクン)の二段階の組織構造をもった集団に編成された[4][29]猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした[29]。太祖アクダは即位前、女真の旧慣にしたがって300戸を1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)とした[2][4][5][12][29]。ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した[5][12][29]。軍事組織としてこれをみれば、300家族から武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される[29]。これが同時に新しい行政組織となった[2][12][29]。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいる[29]。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった[29]。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがいミンガンやムクンに任命した[12]。アクダの統治は万事おおまかであり、劉邦時代のに似ているといわれる[12]。しかし、この組織は単なる氏族集団の寄せ集めではなかったので、ジュシェン人が遼を倒し、さらに華北へ進出する際の基盤となった[29]。金が華北を占領するとジュシェン人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安(ミンガン)は氏族単位から地方単位に再編成された。猛安・謀克制は、華北進出前のジュシェン人、キタン人、渤海人、漢人にも適用された[2][29]

ジュシェン進出後の漢地では都市を把握し、定着農耕民の土地を掌握する観点から中華風の州県制が採用され、猛安・謀克制から変わっていった。世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると、ジュシェン人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。また、漢人に取り囲まれて居住しているため文化面での漢化が進み、ジュシェン人の組織力はゆるんでいった[32]

複都制 編集

金は遼の複都制(五京制)を継承した[37]1138年(天眷元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、北宋の首都であった開封を「汴京開封府」として、七京とした。 1150年(天徳2年)、臨潢府から京号を除いた。1153年(天徳5年)、会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称した[37]。これにともない、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、また、「汴京開封府」を「南京開封府」に改称して五京とした。1173年(大定13年)、会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制を採用した。

行政区画 編集

 
金朝の各府

金では当初10、最終的には19の路に分け、その下に)、その下にを置いた。

文化 編集

言語・文字 編集

 
女真文字「明王慎德、四夷咸賓」の印
 
元好問銅像(山西省忻州市

ジュシェン人の言語女真語は、アルタイ語系ツングース・満洲語のひとつである[50]。12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した[50]。金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は代まで引き続き話された[50]。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる[50][51]

ジュシェン(女真)は、ツングース系の人びとのなかでは最も早く文字を作成した民族であるが、そこではキタン人(モンゴル系)の契丹文字からの刺激をおおいに受けている[51]。契丹文字は、残っている資料の絶対量が圧倒的に少なく、他文字・他言語との対訳という手がかりにも乏しいため、いまだ充分な解読には至っていない。契丹大字が漢字と同じ表意文字、契丹小字が表音文字であることは判明しており、女真文字の創成にも影響をあたえた[52]。また、金朝においてもキタン人と漢人の翻訳官が採用されており、女真文字は契丹文字と漢字とに翻訳されていた[52]1191年、世宗の国粋主義的政策のなかで、公文書における契丹文字の使用が廃止された[52]

当初、文字を持たなかったジュシェン人であったが、金朝創始者のアクダの時代にはキタン、宋それぞれが新興ジュシェンとさかんに交渉をおこなっており、キタンとの交渉に際しては文書を契丹文字に直していた[51]。ジュシェンの人びと、ことに熟女真と称されていた人びとはまず契丹文字を習い知っていたのである[51]。こうした情勢のなかで、アクダは契丹文字・漢字に通じていた同族の希尹と葉魯に女真大字をつくらせ、1119年8月に完成させた[22]。3代熙宗の1138年、女真小字が創案され、1145年からは大字とならんで使用された[22]。大小の文字の違いは充分に説明されていないが、女真大字は漢字をなぞった表意文字、小字は音節をあらわす表音文字であり、表意文字だけで書く方法があった。小字の使用法は日本語表記における仮名文字に似ている[22]金石文の発見や辞書『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって漢字と同様、進んだ。13世紀に入り、モンゴル軍が華北に侵攻した。金の滅亡後の華北には契丹文字・女真文字を使う人はいなくなったが満洲・朝鮮の地域では廃絶されていなかった[22]1407年に設置された女真館があったが、1445年にはモンゴル文字に切り替わり、以後は女真人による女真文字はまったく使われなくなった。

文学・歴史 編集

文学では、宋代に発生した雑劇を継承し、元曲の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものとして、金朝に仕えた董解元中国語版による語りもの文学『西廂記諸宮調』がある[53]。元曲の『西廂記』と区別するため、作者の名をとって通常『董西廂』と称される[53]

詩人では金朝の地方官を歴任した元好問が有名で、金朝滅亡時の悲憤慷慨のは「喪乱詩」として著名である[54]。その詩風は陶淵明杜甫蘇軾黄庭堅、とりわけ杜甫の詩に学び、重厚と評される金代随一の詩人であった[34]。元好問の著『中州集』は金代文学の粋を集めたものとして高く評価される[34]。また、金史の撰述を企図して各地を歴遊した。各地から収集した史料は未完に終わったが、元代末葉に編纂されたのは大きいとされる。

詩人として他に、熊岳(現、遼寧省蓋州市)出身の王庭筠がおり、七言の長編を得意とした。王庭筠は漢民族ではなく、渤海人ともいわれる[55]

宗教 編集

 
全真教の開祖王重陽と七真人

中国の歴代王朝によって保護されてきた道教は、しだいに宗教的な清純さを失って迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んだ[56]。金代にこうした道教に革新の気風を呼び起こしたのが王重陽であった[56]。彼は華北が金に占領された12世紀中葉、山東省において、厳しい修行生活を唱えて新道教を開いた[56]。これが全真教であり、第二祖の馬丹陽中国語版が教団組織を固めた[56]。ただし、この流れは宋代からの三教融合の傾向を引き継いだものでもあった[34]。当時まだ若かった邱処機(長春真人)が教主になると全真教はいっそう発展し[56]、江南の正一教と道教界を二分する勢力となった[注釈 34]

建築 編集

金代の代表的な建築としては仏教に帰依した熙宗が皇統3年(1143年)に造営を命じた朔県(現、山西省朔州市)の崇福寺弥陀堂が有名であり、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。山西省大同市善化寺は遼代から金代にかけて建造された建物を含んでいるが、そのうち、三聖殿は普賢閣や大雄宝殿とは細部の手法が明らかに異なり、天会6年(1128年)以降の建造と考えられる[57]。同じ大同の上華厳寺は遼代に創建されたものの、その後の兵火で焼失し、金の天眷3年(1140年)に再建された[58]。この寺の建物の多くは再び被災したが、大雄宝殿は金代建築の名残をとどめている[58]。「中国十大名寺」の1つと称される河北省正定県隆興寺中国語版の伽藍もまた、金代に整えられた[59]北京市の広安門外に位置する天寧寺中国語版の塔は、12世紀前葉のものと考えられ、類例は中国東北部に多くみられる[60]。似た形式では1175年建造の河南省洛陽市白馬寺の塔がある[60]臨済禅発祥の寺として知られる河北省正定県の臨済寺では、世宗が1183年に澄霊塔および寺院伽藍の修復を命じており、現存する澄霊塔には、遼・金代の典型的な様式がみられる。

それ以外で著名なものに、

などがある[61]

美術・工芸・書画 編集

陶磁器の生産については、鈞窯の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる釉薬のかけられた瓶子の優品が作られた。河北省曲陽県にあった定窯白磁も引き続き生産され、優れたものが多く見られる。北宋後期から金代にかけては型押しで施文した印花装飾がおこなわれた[62]。定窯白磁は華北の磁器生産に大きな影響をあたえ、中原から東北・内蒙古にかけて数多くの模倣を生み出した[62]。また、最大の民窯であった磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られたのも金代のことといわれる。磁州窯系では、とりわけ陶枕において絵画的意匠がさかんに取り入れられている[62]

書画では、金皇帝の章宗が文人として傑出した存在であり[34]、北宋の徽宗風の痩金体による書を能くした[63]。作品に「伝顧愷之女史箴図鑑」の女史箴がある[63]。章宗は、党懐英、王庭筠趙秉文中国語版などの文人を重用して文化振興に努めた[63]。王庭筠は詩文書画を能くし、その才能を愛した章宗によって翰林修撰に取り立てられ、宮中の書画の品評にもあたった[55][64]

金の元号 編集

  1. 収国1115年 - 1116年
  2. 天輔1117年 - 1123年
  3. 天会(1123年 - 1137年
  4. 天眷1138年 - 1140年
  5. 皇統1141年 - 1149年
  6. 天徳(1149年 - 1153年
  7. 貞元(1153年 - 1156年
  8. 正隆(1156年 - 1161年
  9. 大定(1161年 - 1189年
  10. 明昌1190年 - 1196年
  11. 承安(1196年 - 1200年
  12. 泰和1201年 - 1208年
  13. 大安1209年 - 1211年
  14. 崇慶1212年 - 1213年
  15. 至寧(1213年)
  16. 貞祐(1213年 - 1217年
  17. 興定(1217年 - 1222年
  18. 元光(1222年 - 1223年
  19. 正大1224年 - 1231年
  20. 開興1232年
  21. 天興(1232年 - 1234年

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 沿海地方
  2. ^ ジュシェンの黄金は、もともとキタン人の官吏や商人によって開発されたものではあった[11]。宋では比較的銀の価値が高かったが西域では金の価値が高かったので、遼では西域との交易には金を充当したと推定される[11]
  3. ^ ヘリンボの父の烏古廼(ウクナイ)は長男の劾者(ヘテェ)と次男のヘリンボを一緒に住まわせ、ヘテェが家政の一切を、ヘリンボには主として外事を担当させた。そのため、ヘテェの子の撒改(サガイ)や孫の粘没喝(ネメガ)はヘリンボの子孫であるアクダやウキマイと並んで一族内で大きな勢力をふるった[15]
  4. ^ 按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で"黄金"を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる[3][5][12][13]。ジュシェンの富強の源泉となった物資は、砂金以外ではが考えられる[12]。阿城区の南東約30キロメートル地点に金代とみられる製鉄遺跡が確認され、発掘調査1960年代になされている[12]。沿海州からも金代の製鉄遺跡が見つかっており、そこでは精錬鍛造の技術をともなっており、工程に応じた地域間分業がある程度成立していたことも判明している[12]
  5. ^ 当初馬政が使者として送られたこの交渉で暗躍したのが、宦官の童貫であった[17]。童貫は、徽宗の文人趣味に取り入って帝に重用され、軍事権を専断し[17]、方臘の乱鎮圧の任にもあたった[18]。なお、『水滸伝』で有名な宋江は童貫にしたがって方臘征討軍に加わり、いくらかの功績をなしたといわれている[18]
  6. ^ 当時は西夏の領域。
  7. ^ 耶律淳は、漢人官僚李処温らに推されて皇帝位についた(北遼[20]。当時、耶律淳とともに燕京を守っていた遼の皇族に、太祖耶律阿保機の八世の孫と称する耶律大石がおり、彼は支配下にあった部族を率いて西走し、陰山の天祚帝のもとへ向かったが、天祚帝とも意見があわず、さらに西に向かい、中央アジアの東西トルキスタンに帝国を建国した[21]。これが西遼(カラ・キタイ)であり、東カラハン朝の首都のベラサグンを占領して国都とした[21]
  8. ^ 燕京を陥落させたアクダに対し、部下が宋にあたえることなくずっと金が占領したらいかがかと進言すると、アクダは「燕京ほか六州はすでに返還を約束した。自分は男子であり、二言はない」と答えたという[20]
  9. ^ 「女真小字」の方は、1138年天眷元年)に第3代皇帝の熙宗ホラが制定し、1145年皇統5年)に公布したというが、大字小字ともに『金史』に具体的な文字の詳細は記述されていない[22]
  10. ^ 金はキタンの領域に加え、新たに華北も支配したが、遊牧民の世界であるモンゴル高原にまでは支配が及ばなかった。それゆえ、その支配が緩むと遊牧諸部族の主導権争いが発生し、これがやがてチンギス・カンの台頭につながったとみることができる[5]
  11. ^ 太宗ウキマイの時代も君主と臣下の身分的へだたりは緩かった[24]。臣下がキジを料理したからとウキマイに気軽に声をかけると彼も気軽に立ち寄ってキジを御馳走になり、ときに君臣一緒になって川遊びをするなど、中華ではみられない気さくさと親愛に裏打ちされた君臣関係がみられた[24]
  12. ^ 金500万両、銀5,000万両、牛馬1万頭、布帛100万匹。
  13. ^ 岳飛らの軍人は主戦論を展開し、知識階級もこれに同調した者が多かった[26]。宰相の秦檜らを代表とする講和派は、使者として北方に出向いたり、捕虜にされるなどしてジュシェン金の実力を知悉している現実主義者が多かった[26]
  14. ^ 皇室の妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦にさせられたという[28]
  15. ^ 太宗ウキマイは、1126年、華北を支配するため三省を設けたが、ここで短時間ではあったがボギレ制と三省制度が共存した[24]
  16. ^ 康王は、徽宗の第九皇子で、靖康の変の際、開封にいなかったため皇族のなかで唯一難を逃れていた[29][31]
  17. ^ 康王はしかし、父も兄も生きている以上、皇帝として即位するわけにはいかないと当初は固辞し、張邦昌のやり方にも批判的であった[31]。張邦昌は、哲宗の皇后を廃されて尼僧となっていた孟氏(元祐皇后)を皇太后として垂簾聴政をおこない、群臣を集めた[4][31]。群臣は、こぞって康王に帝位に就くことを要請し、時勢ただならぬことを理解した康王が即位を了承した[31]
  18. ^ これ以降の宋朝を南宋という[4][5]
  19. ^ しかし、1135年にウキマイが死去、1137年にネメガが没すると後ろ盾を失った劉豫も皇帝の座を降ろされ、斉国は廃止された。
  20. ^ 主戦派の岳飛は講和成立後まもなく処刑された[4]
  21. ^ この法令は、歴代の中華王朝の律令を参照してつくられた[34]
  22. ^ 海陵王は、彼の死後、帝位に就いたことも否定され、単に海陵王とのみ記録されている[32]
  23. ^ 海陵王は目的達成のために、自身の母親さえ殺している[35]
  24. ^ 海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり[35]、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが[24]、当時の経済事情もこれにあずかっていた[32]。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた[32]。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、中原から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた[32]
  25. ^ 海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后(悼平皇后)とも仲がよく、女色家として知られていた[35]。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃(劉希)という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている[35]
  26. ^ 世宗が南宋との講和を急いだ理由は、キタン人がかつての遼王家の治める中央アジアの西遼と連携して行動することを警戒してのことであった[32]
  27. ^ 衛兵にも漢語を使わせなかったという。しかし、漢化の勢いは止めようがなく、猛安・謀克の世襲においてもほどこしたほどであった。
  28. ^ 1194年から95年にかけて、いまだ弱小勢力であったテムジンは金朝のタタル族討伐に協力してジャウトクリの称号が金の将軍完顔襄より授けられたが、この時点でのテムジンと金朝皇帝との力関係では、当然のことながら後者が圧倒的優位に立っていた[44]。そればかりではなく、トオリルの与えられた称号はオン・カン(「オン」は王の意)であって、テムジンからすれば主筋にあたった[45]。テムジンは1203年、一瞬の隙をついてトオリル(オン・カン)を奇襲で倒している[45]
  29. ^ 通用期限なしの紙幣はのちの元朝に引き継がれた[34]
  30. ^ しかし、以前から、モンゴル高原に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力を阻止してきた金朝からすれば、この金・南宋戦争はまことに不運であり、モンゴルからすればたいへん幸運だったということができる[43][46]杉山正明(東洋史)は、金帝国からモンゴルをたたく機会はこのときしかなかったのではないかと指摘している[46]
  31. ^ 徒単鎰急死の直後に開封遷都への宣言がなされており、彼が宣宗により粛清されたことも疑われる[48]
  32. ^ 1333年、蒲鮮万奴がオゴデイの息子のグユクが率いるモンゴル軍によって捕らえられ、大真国も滅亡した[47]
  33. ^ 理宗に仕えた南宋の高官趙范中国語版は、「かつて北方から興った金と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、モンゴルとの同盟に慎重な意見を進言したが、弟の趙葵中国語版は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[32]
  34. ^ 長春真人はのちにチンギス・カンの招きを受けて西征途上のチンギスとヒンドゥークシュ山脈の南で会見し、その信任を受けるようになると教勢はさらに拡大し、華北における道教の主流として大勢力を確立した[56]
  35. ^ 才色兼備で有名な古代中国の女性。

出典 編集

  1. ^ 金啓孮 1984, p. 224
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar 金(中国の王朝)』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f g h i j k 梅村(2008)pp.415-418
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 宮澤・杉山(1998)pp.206-210
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 宮脇(2018)pp.62-64
  6. ^ a b 女真』 - コトバンク
  7. ^ a b c d 石橋(2000)pp.64-66
  8. ^ 松村(2006)pp.145-147
  9. ^ 岸本(2008)pp.239-242
  10. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.253-254
  11. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.251-253
  12. ^ a b c d e f g h i j k 河内(1989)pp.230-232
  13. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.254-256
  14. ^ a b c 河内(1989)pp.228-230
  15. ^ a b c d e 河内(1970)pp.44-48
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 梅村(2008)pp.418-420
  17. ^ a b 佐伯(1975)pp.261-262
  18. ^ a b 佐伯(1975)pp.263-264
  19. ^ a b c 佐伯(1975)pp.256-257
  20. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.257-259
  21. ^ a b 佐伯(1975)pp.277-279
  22. ^ a b c d e f 梅村(2008)pp.465-469
  23. ^ 佐伯(1975)pp.260-261
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 河内(1989)pp.232-235
  25. ^ a b c 佐伯(1975)pp.266-268
  26. ^ a b 佐伯(1975)pp.268-270
  27. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.271-273
  28. ^ 靖康稗史箋證, p. [要ページ番号]
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 梅村(2008)pp.420-423
  30. ^ 佐伯(1975)pp.280-281
  31. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.281-283
  32. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 梅村(2008)pp.423-431
  33. ^ 佐伯(1975)pp.287-288
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 宮澤・杉山(1998)pp.219-222
  35. ^ a b c d e f g h i j 佐伯(1975)pp.297-300
  36. ^ a b c d e f g 佐伯(1975)pp.300-302
  37. ^ a b c d e f g 三田村(1991)pp.160-162
  38. ^ a b c d e 宮澤・杉山(1998)pp.210-214
  39. ^ 佐伯(1975)pp.307-310
  40. ^ a b c d e f g h i 佐伯(1975)pp.304-305
  41. ^ a b 佐伯(1975)pp.302-304
  42. ^ a b c d e f g h i j k l 佐伯(1975)pp.315-316
  43. ^ a b c d e 杉山(2008)pp.96-99
  44. ^ a b c d e f g h i j k 海老澤 1998, p. [要ページ番号]
  45. ^ a b 杉山(2008)pp.82-83
  46. ^ a b c 杉山(2008)pp.90-95
  47. ^ a b c d e f g h i j 河内(1989)pp.235-237
  48. ^ a b c d e 杉山(2008)pp.99-102
  49. ^ a b c d e f g 杉山(2008)pp.121-122
  50. ^ a b c d 池上(1989)pp.158-159
  51. ^ a b c d 梅村(2008)pp.464-465
  52. ^ a b c 梅村(2008)pp.460-464
  53. ^ a b 董西廂』 - コトバンク
  54. ^ 元好問』 - コトバンク
  55. ^ a b 『中国書人名鑑』(2007)p.96
  56. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.306-307
  57. ^ 『中国の古建築』(1980)p.111
  58. ^ a b 『中国の古建築』(1980)pp.102-105
  59. ^ 『中国の古建築』(1980)pp.106-107
  60. ^ a b 『中国の古建築』(1980)pp.120-129
  61. ^ 『中国の古建築』(1980)p.209
  62. ^ a b c 弓場(1999)pp.44-50
  63. ^ a b c 『中国書人名鑑』(2007)p.97
  64. ^ 王庭筠』 - コトバンク

参考文献 編集

  • 石橋崇雄『大清帝国』講談社〈講談社選書メチエ〉、2000年1月。ISBN 4-06-258174-4 
  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 岡田英弘神田信夫松村潤『紫禁城の栄光』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年5月。ISBN 4-06-159784-1 
    • 松村潤「第7章 大元伝国の璽」『紫禁城の栄光』講談社、2006年。 
  • 尾形勇、岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年6月。ISBN 978-4-634-41330-6 
    • 宮澤知之; 杉山正明 著「第4章 東アジア世界の変容」、尾形; 岸本 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年。 
  • 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。 
  • 岸本美緒; 宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年9月。ISBN 978-4-12-205054-9 
    • 岸本美緒、宮嶋博史「5章 華夷変態」『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年。 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 杉山正明「第1部 はるかなる大モンゴル帝国」『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年8月。ISBN 978-4-12-205044-0 
  • 鈴木洋悦弓野隆之菅野智明 編『中国書人名鑑』二玄社、2007年9月。ISBN 978-4-544-01078-7 
  • 長谷部楽爾 編『【カラー版】世界やきもの史』美術出版社、1999年5月。ISBN 4-568-40049-X 
    • 弓場紀知 著「第4章 中国の陶磁II」、長谷部 編『【カラー版】世界やきもの史』美術出版社、1999年。 
  • 三上次男神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 池上二良 著「第1部第III章2 東北アジアの言語分布の変遷」、三上; 神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上; 神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
  • 三田村泰助『生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと』河出書房新社〈河出文庫〉、1991年5月。ISBN 4-309-47212-5 
  • 宮脇淳子『モンゴルの歴史 - 遊牧民の誕生からモンゴル国まで -』刀水書房〈刀水歴史全書59〉、2018年10月。ISBN 978-4-88708-446-9 
  • 村田治郎田中淡 編『世界の文化史蹟 第17巻 中国の古建築』講談社、1980年10月。 
  • 金啓孮編著『女真文辭典文物出版社、1984年。 
  • 『靖康稗史箋證・卷3』。 
  • 海老澤哲雄モンゴルの対金朝外交」『駒沢史學』第52巻、駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会、1998年6月、2022年10月9日閲覧 

関連項目 編集

外部リンク 編集