鈴木重朝
鈴木 重朝(すずき しげとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。雑賀党鈴木氏の当主。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄4年(1561年)? |
死没 | 元和9年(1623年) |
別名 | 孫三郎、孫市(通称) |
官位 | 内膳正 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼、伊達政宗、徳川家康、頼房 |
藩 | 水戸藩士 |
氏族 | 雑賀党鈴木氏 |
子 | 重次 |
生涯編集
永禄4年(1561年)、鈴木重秀の長男として生まれたとされるが[要出典]、鈴木佐大夫の子という説もあり、詳細は不明である。また、三河鈴木氏出身で鈴木孫一の養子となったとする説もある。
鈴木氏は石山戦争では顕如に協力して織田信長と戦うが[1]、天正13年(1585年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)による紀伊征伐で雑賀衆が滅亡すると、豊臣秀長に仕えた。後に秀吉の直臣となり、豊臣家の鉄砲頭に抜擢され1万石を与えられた。以後、天正18年(1590年)の小田原征伐では忍城攻めに参加し、朝鮮出兵では肥前名護屋城の在番を務めた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った。戦後は浪人の後に伊達政宗に仕え、後に政宗の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられた。
なお、伏見城の戦いで元忠所用の「糸素縣縅二枚胴具足」が重朝の手に渡ったが、重朝は元忠の子の忠政に返還を申し出た[2]。忠政は深く感銘し重朝にこの具足を譲り、2004年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈された(なお兜は幕末期に新調されている)[2]。
跡を継いだ子の重次は水戸藩主・頼房の十一男を養子・鈴木重義として迎えたため、鈴木家は水戸藩の重臣として続き、子孫は「雑賀」の姓に改めた。また、歴代の当主は「孫一」を通称とした。なお、雑賀党の首領は代々「孫一」を名乗ることが慣例となっていた。孫一は「孫市」とも書かれることもある。
補注編集
- ^ 信用できる資料に重朝がはじめて登場するのは、1592年に秀吉の家臣として登場する頃であり、重朝が石山戦争の頃に雑賀衆として活躍したかどうかは不明である。
- ^ a b “ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所. 2020年11月7日閲覧。
- ^ 没年には異説もあり、墓所や法号も不明であるため、明確な没年は考証の余地がある。
関連項目編集
- 八丁念仏団子刺し - 孫市の遺愛刀。子孫宅から水戸徳川家に伝来する。